「幸せになろうなんて思わなくていいのです。」 ヨシタケシンスケ x 養老孟司 (「芸術新潮」2022年11月号より)
p32〜
「ヨシタケ 人間、いくつになってもひどい目には遭うもので、誰も悪くないのに、誰も幸せにならないような状況になるのは、もう、相性の悪さとしか言いようがない。
養老 じっとしているしかありませんね。 じたばたしても無駄だから。 もちろん昔は、若いうちなんて気持ちに余裕がないから違いましたよ。 楽になったのは大学を辞めてから。 勤めていると難しいことがたくさんありますよ。大学を辞めた時も、その後どうしようかなんていっさい考えていませんでした。
ヨシタケ 大学では学生たちに教えなきゃいけないんですよね。
養老 突き詰めると、教育なんて無理なんですよ、どんな問題だって解決するのは本人なんだから。 僕は学生の頃から教育熱心な先生のことを、余計なお世話だと思ってました。 ものごとは結局、自分で学ぶべきで、「自習」してゆくしかない。 作家の高橋秀実さんが『道徳教育、いい人じゃなきゃダメですか?』という本で、日本の小学校の道徳の教科書を考察しているんです。 小学校の教科書には最初の方に「みんなで考えましょう」というのが出てきます。 でも「考える」という行為は、本来は一人でしかできないことなので、みんなで考えるというのは、矛盾しているんです。 自分がどうするかを、最初から他人も含めて考えなきゃいけないなんて、子供だって不思議に思うことです。 僕が大学を辞める時は、もちろん引き止めた人もいたし、困るという人もいたけれど、説得されてもこちらの心には響かなかった。理屈じゃないですから。
ヨシタケ 理詰めでものを考えていくと、世の中、理屈で動いているわけじゃない、というわけですね。
養老 大学の難しいところはそれで、理屈を教えているんだけど、その理屈は実際に行動するときには役に立ちません。 理屈というのは常に後付けですからね。
ヨシタケ 養老先生は子供と一緒に虫採りをしていらっしゃいますよね。
養老 虫採りは、子供を外へ連れ出すための口実です。 外へ行けばいろいろな自然に出会えるでしょう? カタツムリがいたり、トカゲが這っていたり、蝉の声が聞こえてきたり。 もうそれで十分なんです。 あとはそれぞれ好きなことをしろと言って、僕は見張っているだけ。 外で遊ぶ以上に子供に必要なことなんてありません。 それをみんな教室に集めておとなしくしてろと言っても、無理です。 一時期、子供が教室に中でじっとできなくて、学級崩壊だなんて言われていましたけど、子供は外で好きにやらせたらいいんですよ。
子供の質問に僕が答えるというNHKの番組に出演したんですが、「どうしたら幸せになれるか」という質問がありました。 子供がそんなことを考えること自体が不幸じゃないですか。 大人が「幸せはこうだ」と定義して当てはめていませんかね。
ヨシタケ 幸せじゃなかったら失敗、とい設定自体が、ヘンなんですよね。
養老 元来、子供は天然自然の存在なんだから、説教したってしょうがない。 そう思った方がいいですよ。 最近しみじみ思いますけど、人間は、自分が努力したおかげで結果を得たと思いたい動物なんです。 たとえばジャガイモは、春に種芋に土をかぶせて置いておけば、耕さなくても秋には育っています。 それなのに人類は一万年もの間、農耕をしてきたから、ジャガイモが勝手に育っちゃいましたというのが気に入らないんです。 命懸けで戦争したのも、結局「やった感」がほしかったわけでしょう。 最初から「頑張らない」と言えばよかったのに、人ばかり相手にしているからそうなっちゃう。 勝手に育っているジャガイモに向かって「俺が育ててやったぞ」と叫んだってしょうがない。 教育問題も同じで、子供はジャガイモだと思えばいいんです。」
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