「人間集団における 人望の研究」 山本七平 祥伝社 昭和58年
学歴、能力を超えた評価基準 ー 人望 p14〜
「「ダメだなあ、あの男は人望がないから」
日本社会では、この一言でその人の前途は断たれる。 その人がいかに有能であってもダメ、そしてこの言葉には反論の余地がない。
「人望」「人徳」がそれほど絶対的な言葉なのに、さてその正体となると明らかではないのは、不思議である。 そこでその正体を追究するのが本書の目的だが、それは追い追い行うとして、まず、「なぜ、わが国では”人望”という言葉が、これほど絶対化するのか」を考えてみよう。
いずれの国にも「人望」という概念はあるであろうが、それは必ずしもその人を評価する絶対的基準ではない。 たとえば、次のような話がある。
日本の、ある新聞記者が西欧民主主義の本家のように言われる国に行った。 彼はその国の実情を知ろうと、さまざまな人と心おきなく話すことにしていたが、その中に駐車場係の人物がいた。 彼はよくこの人物と一緒にお茶を飲んでいたが、ある日、その国の新聞記者から注意された。 「ああいう駐車場の”番人”とお茶など飲まないほうがいい、そんなことをすると同じ階級の出身とまちがわれるから」と。 相手は親切のつもりなのであろうが、この新聞記者は逆に驚いた。
「ヘエー。 これが民主主義の本家なのか」と。
こういう国では、その番人がいかに「人徳」があり、いかに「人望を得る」能力があってもダメである。 そしてその社会では、その人を拒否する言葉は「ダメだな、あの男は下層階級の出身だから」であろう。
また、私に友人にオックスフォード大学出身の、日本の大学の教授がいる。 彼は日本に長く滞在し、日本語はペラペラで、読み書きも自由、日本人相手に日本語で講演するが、録音テープを聞いて、イギリス人だと思う人はいない。 私などから見ると、学歴、能力、人柄すべて満点なので、ある日、雑談のとき次のように言った。
「あなたは日本におられるより、帰国してイギリスの外務省に入り、日本問題を担当されたらどうですか。 そのほうがイギリスのためにも、日本のためにもなると思いますが…」
そのとき、実に意外な返事がかえってきた。 「ダメです。 私は上流階級のアクセントが使えませんから…」 「ヘエー」、私は驚いて絶句した。
「だから、イギリスはうまくいかないのです」と彼は言った。 彼がいかに優秀で能力があり、いかに人望を得られる人柄でも「ダメだな、あの男は上流階級のアクセントが使えないから」で、その人の前途は断たれる。 おそらくこの国では、「アクセントなんてどうでもいいじゃないですか」は通らないのである。
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