「さまよえる魂のうた」 小泉八雲コレクション ちくま文庫 2004年
文学と世論 p120〜
「みなさんは、私が述べている意図を、つまり、私が今到達しようとしている結論を、きわめて明瞭に理解できるであろう。 ロシアの国民は厖大な人口をかかえ、強大ではあるが、数千年来このかた、日本の国民の性格には存在し得ないような大きな短所や欠陥をもっているのである。 文明というものが、風紀と倫理、教育と産業とを意味する限り、数百年前でさえ、日本人は、国民としては、今日のロシア人よりも進んでいたし、ときには遠い将来のロシア人よりも進んでいる、と私は断言せざるを得ない。
ところが、西洋諸国は日本について何を知っているだろうか? ほとんど皆無である。 今日、日本を見聞し、日本について何がしかのことを知っている数百人の富裕な人々がいないわけではない。 こういった旅行家たちによって、日本に関する数千冊もの書物が書かれてきた。 しかし、これらの旅行者や著述家たちは、ほとんど何も表現することがない。 すなわち、彼らは実際いかなる意味においても、国民的見解というものを表現することができないのである。
西洋諸国の多くの国民ー その一般大衆の大部分 ーは、ちょうど十九世紀初頭にロシアについて知らなかったのと同様に、今日の日本についても、ほとんど何も知っていない。 彼らは、日本が善戦し、鉄道を保有していることは知っている。 しかも、そういったことが、一般大衆の心に及ぼしたほとんどすべての印象といってもよいのである。 ヨーロッパの知識階級は、もっとたくさんの知識をもってはいるが、前述したように、彼らは世論を作りだすことはない。 世論とは、おおむね感情の問題であって、思想の問題ではないからである。
国民感情とは、頭脳を通して伝達されるものではなく、心情を通して伝達されなければならないものなのである。 しかも、それが可能なのは、ただある一つの階層の人々ー 日本の文学者 ーによってのみである。 大臣や外交官や学会のお偉方たちー こういった人たちには、不可能なことである。 だが、一人の偉大な小説家、一人の偉大な詩人がいさえすれば、彼らはたった一人でこれを首尾よくやりとげるであろう。 血のつながりもなく、言葉も異なる人々には、どんな手段によろうと、これをなし得るものではない。 それは、日本人によって考えられ、日本人によって書かれ、また外国流の思考や感覚によってまったく影響されない日本文学によってのみなし得るのである。」
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2022年12月18日
日本人の心情にねざす文学
posted by Fukutake at 09:15| 日記