「ホンの本音」群ようこ 角川文庫
男とは何ぞや p128〜
「私が子供の頃から今まで、読んで一番ビックリした本は、田山花袋の「蒲団」(新潮文庫他)である。 最初にこれを読んだのは小学生の五年くらいだった。 私のなかで文庫本を読んでいるのは大人というイメージがあった。 早く私もそうなりたいと憧れて、書店の文庫本の棚をみて財布の中身と相談し、なるたけ薄くて値段の安いものを選んでいた。 田山花袋については何も知らず、何となく目についてしまったので買ってしまったのである。
このお話は小学生には何ら関係のない、文学者の中年男の若い娘への恋心がテーマだった。 そっちのほうの興味だけ早熟だった私は興味津々で読み進んでいった。 ところがこの本はまだ子供だった私を混乱させた。 まず、いままで私は女の人が恋愛についてかいた作品を読んだことはあったが、男の人がそういうことについて書いたのを読んだのは初めてだった。 そしてその内容が想像していたものとはかなり違っていたからである。
当時はまだ「女は男に黙ってついてくればいい」などという言葉がまかり通っていたころだった。 だから私も男の人は大人になれば誰でも強くてしっかりするもんだと信じきっていたのである。 そんな時に読んだ「蒲団」の印象は強烈だった。
ここに登場してくるのは、自分の弟子であるある美人の若い娘を好きになってしまった、三人の子持ちの中年男である。 「どうして結婚して子供もいるのに他の女に人を好きになるのだろうか」これが第一の疑問であった。 そして彼女の恋人に嫉妬をして、オロオロしたり、イライラしたりして飲んだくれてしまう。 「文学者たるものそんなことでいいのか」という第二の疑問であった。 頭の中に「男とはなんぞや」ということばが浮かんできてグルグルまわっていた。 男たるもの家族を守るのが当然。 嫉妬などとは無関係な生き物だと思っていた。 これでは大の男として情けないと思った。 そして彼女が寝ていた布団を敷いて匂いをかぎ、顔を埋めて泣いてしまう最後の部分を読んで、小学生の私はあまりのことに「ひえーっ」と仰天してしまった。 この人はただの変なおじさんじゃないのと小馬鹿にしていた。 それからずーっと「蒲団」は情けない男が主人公の小説として残っていた。
それが社会に出て初めて、男には女以上に嫉妬する人がいるし、女々しい人もいることを知ったのである。 私のなかで「蒲団」の評価が変わるまで十年以上かかった。 この本を読んだ頃を思い出してみて、やはりその年頃にふさわしい本を読むべきだなあと反省したのであった。」
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