2022年12月17日

常に我が師を求めよ

「田中美知太郎全集 15」 筑摩書房 昭和六十三年

西欧に学ぶもの p184〜

 「第一次世界大戦が終わったとき、シュペングラーの『西欧の没落』は流行の書となった。 第二次世界大戦が終わったときにも、トインビーの歴史観が、やはりそういう予言の意味で特別の興味をもたれたようである。 シュペングラーやトインビーの見解は、現代西ヨーロッパの文化のあり方を、古代史のアレクサンドリア時代とかギリシア・ローマ時代のそれに対応させて考えるところから来ているようである。 それはあくまでもかれらの歴史の内部において、内面から理解されるべき文明史的な出来事なのである。

 しかしわれわれのところでは、西欧が没落すれば、今度は東洋が興るというような意味にしか理解されなかったのではないか。 トインビー氏が最初に来日したとき、かれのその種の考えを昔日の大英帝国が植民地を失わねばならなくなった現状に関係づけたような質問が出たのを、かれは断乎とした調子で否定し、むしろヨーロッパ世界のうちに第一次大戦のようなものが起こったこと、そのことがショックだったのだと答えていたのを思い出す。

 西洋の没落が言われてから既に半世紀、ようやくその事実が目に見えて来たと言えるところかも知れない。 われわれがかれらに追いつき、かれらを追い抜くことができたと思えるのも、かれらのスピードが落ちたためかも知れない。 もしそうだとすると、われわれもそういい気になってばかりはいられないことになる。 三人行けば、そのうちに必ずわが師があるというような言葉もあったかと思う。 もう何も学ぶものはないというのは思い上がりであろう。 われわれは同輩からも後輩からも学ぶことがある。 しかしまた現在のヨーロッパが、われわれにとって何ごとにも手本になるとか、先進国であるというようなこともなくなった。 現在のヨーロッパからいろいろながらくたが輸入されるけれどもそのようなものを一つ一つ有難がっているのは愚かしいことである。 われわれは見わける眼をもたなければならないのである。

 むろん漫然とこんなことを言っているだけでは何の意味もない。 わたしがいま考えているのは、斜陽化し没落すると言われているヨーロッパが、もし事実そうなったとき何が残るだろうかと考えるやり方である。 例えば古代ギリシア人のつくった文化は、やがてかれらギリシア人の手を離れて独り歩きするようになるが、現在までのヨーロッパの所産もまた同じように、ヨーロッパ人の手を離れて独り歩きするようになるだろう。 古代のシナ人やインド人がつくったものは、その後かれらの歴史の変化や現在のあり方とは別に、今日のわれわれの文化のうちに貴重な宝として保持されている、 いわゆる中国語の学習は、実用的に現在大きな価値をもっているかも知れないが、教養的な文化価値をもっているかどうかは問題であろう。 しかし漢語、漢文は実用性がなくてもそれ自体で教養的文化的な価値は大きい。 このような区別とか分離が、現在のヨーロッパと永い歴史のうちにかれらのつくったものとの間に出来てくるかも知れないというのが、ヨーロッパの没落の一つの意味である。 われわれがいつまでも学ばなければならないものが何処にあるかは明らかである。」

(「文藝春秋」昭和五十二年三月号 巻頭言)

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自分たちを見直そう
posted by Fukutake at 09:32| 日記