「経済論理学序説」 西部邁 中央公論社 昭和五十八年
ケインズ墓碑銘 p79〜
「(経済学に)期待要素を導入することによって、ケインズは経済学を物質の次元から精神の次元へ、あるいは自然の次元から文化の次元へ、移行させた。 しかし、この移行は決定的に不満足なものであった、と私は思う。 人間の欲望は物質的なものと精神的なものに区別して、経済を前者にかかわるものとみなす点で、ケインズは旧態依然であった。 また、人間の欲望が物質的なものから精神的なものへと発展していくという、欲望の段階的発達説を安易に採用した点でも、俗説にしたがっていた。 彼はあまりに”経済学者”でありすぎたのである。
経済学とは、物質に込められる精神的な意味内容を問わないような学問である。 もしそれを問えば、家庭や企業や共同体や政府やにおける権威と権力、地位と役割、伝統と慣習あるいは価値と規範などが経済の意味を構成しているのだということについて、議論しなければならない。 経済学はそうした議論を好まない。 それですましておれるのは、物質を精神から分離できるという想念に、しかも社会の基礎には物質的過程があり、欲望の基礎には物欲があるという想念に、経済学が安んじているからである。 仮に経済学が精神を問題にすることがあっても、それは、元来は物質にまつわる計算に最も適合する合理的選択の”形式”を、選択の意味内容を問わずに、非物質的な領域に応用するだけのことである。 この意味で、経済学という知の体系そのものが一種の”物神崇拝”の産物なのである。
しかし、ケインズは言う、
「さて、たしかに人間の必要は飽くことを知らないようにみえる。 しかしその必要は、二つの種類に分かれるー われわれが仲間の人間の状態に如何にかかわらず感じるという意味での絶対的必要と、その充足によって仲間たちの上に立ち、優越感を与えられる場合にかぎって感じるという意味での相対的な必要、この二つである。 第二の種類の必要、すなわち優越の欲求を充すような必要は、実際に飽くことを知らぬものであろう。…しかしこのことは絶対的な必要については当てはまらない ーこの種の必要が十分満たされたため、われわれが非経済的な目的にたいしてよりいっそうの精力をささげる道を選ぶに至るような時点が、おそらくわれわれの誰もが気づくよりもずっと早く到来するであろう。 …私の結論は次のようなものである。 すなわち、重大な戦争と顕著な人口の増加がないものと仮定すれば、経済問題は、百年以内に解決されるか、あるいは少なくとも解決もめどがつくであろうということである。 これは経済問題がー 将来を見通すかぎり ー人類の恒久的な問題ではないことを意味する」(『わが孫たちの経済的可能性』)
この稚拙な欲望論とそれに基づく経済問題の平板な位置づけには、まったく閉口させられる。 ケインズは、一切の社会問題はなからず物質的あるいは技術的な側面をもち、経済問題はその”側面”にかかわるものであること、したがって社会のあるかぎり経済問題が消滅しないということを、理解していない。」
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2022年12月16日
社会には不可避な分配問題
posted by Fukutake at 08:52| 日記