2022年12月16日

新しい統治の典拠

「日本的革命の哲学」 山本七平 PHP 昭和五十七年

新しい統治思想 p137〜

 「私は時々、いま日本人が「(北条)泰時のような状態」に置かれたらどうするであろうかと空想する。 律令という中国からの継受法による体制に完全に機能しなくなり、それを打破してしまったのだがー さて「それに代わるべきもの」といえば、何もない。 新しい法を制定し、新しい制度をつくるといっても、その「基となるべき政治思想」もない。 さらに、どこかに「そのまねをすればよい」というお手本もあるわけでもない。 いまもし新憲法も消え、それに基づく政治制度も消え、西欧型民主主義も消えてしまって、「全く新しい思想を自ら考え出し、それに基づく法哲学を創出し、それによって今までの人類にない新しい法律と制度を作り出して制定し、実施しよう」ということになったら、人びとは一体どうするであろうか。 日本人は独創性がないと言われるから、それははじめから不可能なのか。 現代の思想的情況では不可能かも知れない。 しかし「幕府制」に関する限り、そうはいえない。 これは当時の世界に類例のない、全く独創的な新しい制度であったからー。

 人間が、何か新しい発想で新しいことをはじめようと思っても、過去を全く無視することはできない。 マルクスがいかに新しい発想をしようと、その発想を体系化しかつ具体化するための「思想的素材」は過去と同時代に求めざるを得ない。 しかしこのことは、他国の法と体制をそのまま継受することは全く別である。 継受は決して新しい発想を自己の中に創出したのでなく、自己と無関係のあるものを見て、それに自己を適応させようとしただけである。 この点、明恵ー泰時政治思想は前者であり、まず「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)絶対」という思想を自ら創出し、それを具体化するための素材を同時代と過去に求めたにすぎない。

 まず「今ある秩序」を「あるがままに認める」なら、朝も幕も公家も武家も律令も、そしてやがて自らが作り出す『式目』の基になる体制も、あるがままにあって一向にさしつかえないわけである。 朝幕併存は「おかしい」と日本人が思い出すのは徳川期になって朱子の正統論が浸透しはじめでからであり、それまでは、それが日本の自然的秩序ならそれでよいとしたわけである。 これが大体、明恵ー泰時政治思想の基本であろう。 だがその基本を具体化し、現実をそれで秩序づけるとなれば、この基本を具体化する素材が必要である。 そしてその基本的素材は中国の思想に求められた。 だが、中国思想に求めたのはあくまで素材である点が、律令とは決定的に違う。 同時に、それが本質であって素材でない中国とも違ってくる。 これはもし今、泰時のような状態に置かれたら、その基本的発想は自ら創出しても、それを具体化する素材は西欧の政治思想に求めるであろうというのと同じである、 このことは今の段階では、政治家よりもむしろ経営者の行き方にあるがー。」

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「政治は利権である」という従来体制の否定。

posted by Fukutake at 08:48| 日記