「井伏鱒二全集 第十一巻」 筑摩書房 昭和四十年
徴用中の旅行 p232〜
「私は戦前まではよく旅に出かけたが、いつも小旅行に甘んじてゐた。樺太も北海道も沖縄もまだ知らない。朝鮮にも大陸にも渡つたことがない。
戦争中には徴用でマライに行つて来たが、これは旅行とは云はれない。しかしシンガポールに滞在中、他人の車に便乗してマラッカやコーランポーに出かけて行つた。これは旅行と云つていいだらう。
そのころ、シンガポールには日本の各新聞社の支局があつた。ちやうど都新聞が東京新聞と社名を改めた直後だが、東京新聞支社の橋本君といふ記者は、傳統ある都新聞は都新聞と云つた方がいいのだと云つて、以前の通り都新聞と染めた社旗を車に立ててゐた。運轉手はアブドラといふ名前で、この男も橋本君に同調して、社旗を取替へるについては自分としても難色ありげな口ぶりをみせてゐた。
ある日、この都新聞支局へ美貌の年若い女性(日本人)が逃げこんで来た。この娘さんは、以前からマラッカで床屋をしてゐる日本人夫婦を両親に持ち、マラッカの生まれだといふ。ところが、マラッカの日本軍政部の将校と憲兵隊の将校に、雙方から責めたてられて身の置場がないから逃げて来たさうであつた。軍政部の人に連れられてキャバレーに行くと、憲兵隊の人から呼び出されて叱られる。憲兵隊の人と散歩に出ると、軍政部の人に叱られる。将校のことだから、機嫌をそこねると後難がおそろしい。それで一と思ひに逃げて来た。ついては、植民地にあつては、弱きを助け正しきを守るジャーナリストが民衆の唯一の頼りだから、この新聞社でかくまつてもらひたいと橋本君に泣きすがつた。
橋本君は閉口して、やつとその娘さんを宥めると、すぐにマラッカの両親のもとへ車で送りとどけることにした。その車に、私は徴用仲間の神保光太郎と一緒に便乗することにして、徴用班の隊長に旅行を願ひ出て直ちに許可を得た。
娘さんは助手席に乗せられて、アブドラがマライ語で沿道風物の説明するのを私たちに通譯した。また、私たちの尋ねるままに、軍政部や憲兵隊の将校個人に關するいろんな話をしてくれた。日本語は割合に上手だが、マライ生れの日本人の通有で語尾がはつきりしなたつた。
匪賊の出る地帯は、猛烈なスピードで通りすぎた。マラッカに着くと、橋本君は娘さんを床屋に送りとどけ、私と神保光太郎はカテドラルの建つてゐる岡にのぼつた。海が目の下に見える岡である。マラッカ海といつて、浪の立たない眞青な海である。…」
(昭和三十二年一月、『小説新潮』に発表。)
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