2022年12月15日

美を見つけるのはむつかしい

「真贋」 小林秀雄 世界文化社 2000年

美を求める心 p15〜

 「… 「美を求める心」という大きな課題に対して、私は、小さな事ばかり、お話ししている様ですが、私は、美の問題は、美とは何かという様な面倒な議論の問題ではなく、私たちめいめいの、小さな、はっきりとした美しさの経験が根本だ、と考えているからなのです。美しいと思うことは、物の美しい姿を感じる事です。美を求める心とは、物の美しい姿を求める心です。絵だけが姿を見せるのではない。音楽は音の姿を耳に伝えます。文学の姿は、心が感じます。だから、姿とは、そういう意味合いの言葉で、ただ普通に言う物の形とか、恰好とかいうことではない。あの人は、姿のいい人だ、とか、様子のいい人だとか言いますが、それは、ただ、その人の姿勢が正しいとか、恰好がいい体付をしているとかいう意味ではないでしょう。その人の優しい心や、人柄も含めて、姿がいいというのでしょう。絵や音楽や詩の姿とは、そういう意味の姿です。姿がそのまま、これを創り出した人の心を語っているのです。

 そういう姿を感じる能力は誰にでも備わり、そういう姿を求める心が誰にでもあるのです。ただ、この能力が、私たちにとって、どんなに貴重か能力であるか、又、この能力は、養い育てようとしなければ衰弱して了うことを、知っている人は、少ないのです。今日の様に、知識や学問が普及し、尊重される様になると、人々は、物を感ずる能力の方を、知らず識らずのうちに、疎かにするようになるのです。物の性質を知ろうとする様になるのです。物の性質を知ろうとする知識や学問の道は、物の姿をいわば壊す行き方をするからです。例えば、ある花の性質を知るとは、どんな形の花弁が何枚あるか、雄蕊、雌蕊はどんな構造をしているか、色素は何々か。という様に、物を部分に分け、要素に分けて行くやり方ですが、花の美しさを感ずる時には、私達は何時も花全体を一と目で感ずるのです。だから感ずる事など易しい事だと思い込んで了うのです。

 一輪の花の美しさをよくよく感ずる事は難しい事だ。仮にそれは易しい事だとしても、人間の美しさ、立派さを感ずる事は、易しい事ではありますまい。又、知識がどんなにあっても、優しい感情を持つとは、物事をよく感ずる心を持っている人ではありませんか。神経質で、物事にすぐ感じても、いらいらしている人がある。そんな人は、優しい心を持っていない場合が多いものです。そんな人は、美しい物の姿を正しく感ずる心を持った人ではない。ただ、びくびくしているだけなのです。ですから、感ずるということも学ばなければならないものなのです。そして、立派な芸術というものは、正しく、豊かに感ずる事を、人々に何時も教えているものなのです。」

(『新編 日本少國民文庫 第九巻「美を求めて」』一九五七年・新潮社)

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まずよく見る。そして感じて、姿を愛でる。
posted by Fukutake at 11:14| 日記