「小林秀雄全集 第十巻」− ゴッホの手紙 − 新潮社版 平成十四年
埴輪 p256〜
「古墳時代の高塚の多くは、土砂の崩壊を防ぐ爲に、周圍に、素焼の圓筒を廻らしてゐる。この素焼の圓筒から頭が生え、手足が生えたものが、いはゆる埴輪である。さういふ一種の建築物の装飾として、埴輪の誕生を考へる説は、支那の明器などの影響も他に考へねばならぬといふ理由から、考古學者の間では未だ定説となつてはゐないさうである。併し、埴輪の美しさの中から、さういふ説が、自ら生まれて来たと考へるのは樂しい事である。この説は少なくとも埴輪の美學に於ける疑う事の出来ぬ條件の様にさへ思はれて来るからだ。
昨年の秋、博物館の古代文化展で、嘗てなく豊富な埴輪の逸品を展觀に接し、その美しさを滿喫し乍ら、私はさういふ風に感じた。原始的な、素朴な、無邪氣な、等々の言葉で、このかなり異様な美しさを捕へてみようとしても空しいのである。さういふ事は、私達現代人の審美眼の複雑さと不安定性とを、直ちに氣附かせるだけだ。それよりも、私が、今、言はば彫刻の誕生といふ出来事に立會つてゐるといふ感じの方が餘程確かなものだと思つた。
埴輪の起源は、單純ではないだらうが、素焼の圓筒をなでてゐる職人達の手が、やがてこの胴體に頭と手足を生やす様に、自ら導かれるといふ事は何んと單純な考へだらう。これは殆ど装飾の本能そのものだ。彼等は、思ひ通りにどんな型でも作り上げろと粘土を與へられた彫刻家ではない。若しさういふ事であつたなら、私達が理解してゐるモデルといふ概念を全く知らぬ彼等は、途方に暮れたかも知れない。
彼等には、彫刻家たらんとする野心はなかつた。與へられた圓筒をなでて夢想する事で充分であつた。モデルとは何か。そんなものは必要ではないし、意味さえなさぬ言葉だ。何故かといふと男の顔も女の姿も、犬も馬も猿も毎日見なれてよく知つてゐる。こんなによく知つてゐるものを、何故殊更見る要があるか。彼等は、粘土の紐を輪狀に積み上げ乍ら、あの男、あの女の顔を想ふ。恰もそれは、彼等の手の觸覺が、彼等の豫告する處に從ふ様なものであらう。埴輪の顔の美しい單純さは、さういふ具合に得られた様に思はれる。複雑なものを單純化するなど大した仕事ではない。複雑さに惑わされぬ眼を持つ事の方が難かしからう。
私は女人の埴輪を一つ持ってゐた。初めの間、この像から私の得た教訓は、豊かな表情は、饒舌な口の様に、決して多くを語るものではないといふ事であつた。圓筒に開けたに過ぎぬ女の眼が見る度毎に、それが、どんなに多種多様な事柄を語るかを楽しんでゐた。併し、今はもうさういふ事にはあまり興味がない。こんがりと人形が燒けて、あの眼や口から煙が立ち登る時の職人の悦びを思つて樂しむ。」
(「日本の彫刻T 上古時代」、昭和二十七年六月)
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