2022年12月12日

念仏

「一言芳談」 小西甚一(校注) ちくま学芸文庫 1998年

 「ある人のことば。「後世をねがうのなら、世間の暮らしをしてゆくのと同じことだ。 今日はもう暮れてしまうが、しごとは何もしないのに無事はこぶ。 今年もうかうか過ぎてしまうし、一生もぼんやりしているうちに終わりになる。 夜寝るときには、何もせず暮れてしたったことを嘆かなくてはならないし、朝めざめては、いちいち頑ばろうと決心しなくてはいけない。 気がゆるんだときは、生死対立の世界が無常だということを思え。 わるい考えがおこったときは、声をあげて念仏せよ。 鬼神や悪魔に対しては、慈悲の心をもち、助かるようにしてやって、打ち平らげようなどという気をおこしてはならない。 貧乏は成仏の種で、毎日仏道へ進むことになるし、富は生死対立の世界をぐるぐる廻りする原因で、つねに悪い行いを増やしてゆくものだ。」

 
「願生房のことばに、「むかし明遍上人におあいして、十八道を伝授されたとき、字輪観をお授けねがいたいと頼んだところ、上人の教えに、『学者・智者になりたがってはだめだ。 お釈迦さまが仏になられる前の世でも、学者・智者ではなく、半句の偈のために身を犠牲にし、虎のためにわが身を施すという道心者でおいでになった。 だから、仏法の奥義はなんの役にも立たない。 道心こそ大切なのだ』とあった。 このお話を承ってのち、字輪観を許されたけれど、お習いしな方が良いという考えがわいてきたものだ」とある。」


 「ある坊さまが、修行なかまを戒めて言われたこと。 「ものを欲しがりなさってはいかん。 貯めこむのはなんでもないが、捨てるということが一大事なのじゃ。」」


 「九州の本覚房が明遍に、「心がもし落ち着かなければ、そのときの念仏は善いとはいえない。 心を静かにしてのち、念仏すべきだ ー と言われておりますが、どう心得たらよろしゅうございましょうか。」とおたずねしたところ、その返事。 「それは秀才のことでしょう。 わたしのような素質のわるい者は、心を静めることがどうしてもできないので、緒の丈夫な数珠を、落ち着こうが落ち着くまいが問題とせず、繰っているだけです。 心が静まったようなとき念仏を ー などと考えていたら、わたしなど、ぜったいに念仏をお唱えできないわけです。」」


 「ある人のことば。 「本心から往生したいと思うなら、人のことも念頭におかず、事物にも関わりあわないで、ひたすら念仏を唱えるがよい。 世間のためになりたいなどということは、いちど仏の国に生まれてから、もう一度帰ってきてやればよい。」」

----
すべてを捨てて念仏に専念せよ
posted by Fukutake at 16:36| 日記