「綺堂随筆 江戸のことば」 岡本綺堂 河出文庫 2003年
喜劇時代 p37〜
「今から四十二、三年前のことである。 私がまだ中学生であった頃に、英国大使館の書記官アストン氏と共に、神保町通りを散歩したことがある。
その頃には今の電車通りはない。 今日で云えば南側の裏通り、即ち東京堂や文房堂前の裏通りが大通りであったのである。 それとても今日に比べると、路幅はよほど狭い。 家並みは悪い。 各商店の前には種々の物が積んである。 往来には塵埃や紙屑が散乱している。 一見、実に不体裁なものであった。
「倫敦や巴里の町に、こんな穢い所はありますまいね。」と、私はあるきながら訊いた。
「勿論です。」とアストン氏は顔をしかめながら答えた。 「新嘉坡や香港にもこんな町は少ないでしょう。」
こう云った後に、アストン氏は又云った。
「併し私は日本の町を歩くことを好みます。 そこには倫敦や巴里は勿論、新嘉坡や香港にも見出されないような大きい愉快を感じることが出来るからです。 それがあなたに判りますか。」
「判りません。」
「それは途中で出逢う人ー男も女も、老人も子供も、皆チャーフルな顔附をしていることです。 どの人もみな楽しいような顔をして歩いています。 こればかりは恐らく他の国には見出されますまい。 それを見ていると、私もそれに釣込まれて、おのずからなる愉快と幸福を感じます。 それが嬉しいので、私は努めて東京の市中を散歩することにしています。
倫敦や巴里の人はどんな苦い顔をして歩いているか、私には想像が附かないので、唯黙って聴いていると、二、三間行き過ぎてからアストン氏は更にこんなことを云った。
「東京の町はいつまでも此儘ではありません。 町は必ず綺麗になります。 路も必ず広くなります。 東京は近き将来に於いて、必ず立派な大都市になり得ることを、私は信じて疑いません。 併しその時になっても、東京の町を歩いている人の顔が今日のようであるかどうか、それは私にも判りません。」
最後の言葉に頗る悲観的な意味を含んでいることは、年はの行かない私にもよく判った。 アストン氏はそれを悲しむような低い溜息を洩らしていた。
それから四十余年の歳月が流れた。 そうして、アストン氏の予言したような時代が来た。 私は神田の大通りを行くごとに、その当時の往来の人の顔と、今の往来の人の顔とを見くらべて、今昔の感に堪えないことが屢々ある。 どの人の顔も昔とは違って来た。 或者は悲しく、ある者は険しく、笑いを好む国民が近来は笑いを吝(おし)むような傾向になったらしく見える。
その時代に喜劇が要求されるのは、理に於いては当然であり、情に於いては自然であろう。 笑いを好む国民は、せめてその劇場にある間だけでも、昔のチャーフル顔の所有者に復(かえ)らなければなるまい。 その意味に於いて、私は今後よりも良き喜劇のますます出現することを切望する一人である。」
(「舞台」(昭和六年八月)/『綺堂劇談』収録)
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