「一人称の死」ー恐れてもしょうがないー 養老孟司(「芸術新潮」2022年11月号より)
p62〜
「2020年の6月末に、心筋梗塞で入院しました。 行けば病気になるぞと、それまではなるべく近寄らないようにしていたのが、体重が大幅に減った上に体調が悪い。 これはおかしいと、自分から東大病院で受診して、そのまま緊急手術に。 術後のICUの部屋で、不思議なことにモニターが2台見えて、とはいってもICUにそんなものないから幻覚ですけど、磨崖仏のような御地蔵さんが5体映っていた。 迎えにきて、でも帰っていきましたよ。 もしかするとまだ近くにうろうろしているかもしれないけどね。
大病をしてその後どうですか、とよく聞かれるのだけれど、自分の死については考えてもしょうがない。 「一人称の死」は、死んでいたら意識がないから、ないも同然でしょう。 理屈ではなく、実体験から言っていることです。 私にふつうの人と違う点があるとしたら、解剖学者としてたくさんの死体を扱ってきたこと。 かかわってきたご遺体は3000ほどになります。 つまり、きわめて実存的に、死体に触れてきたのです。 のめりこむうち、自分が死体側にいくような感覚を何度も味わいました。 でも、自分が死んだらその感覚自体がなくなってしまう。 目の前にある死体がなくなるようなもので、結局、自分で意識できない死は怖くないし、人間の死亡率は100パーセント、死を怖がってもしようがないと思うに至りました。 「死」は、普通はもっと抽象的にとらえられているけど、「一般的な死」なんてありません。 人が自然と接する機会は年々減り、何かの死骸を見るようなことも、都会ではほとんどなくなりました。 死が日常的にあった鎌倉時代の人の感覚なんて、今の人には理解できないでしょう。 死体が腐敗していく様を段階ごとに描いた仏教画「九相図」なんて、リアルで驚きですよ。
最近、メタバース推進協議会の代表理事を務めることになりました。 実質的にたいしたことはしていませんが、『唯脳論』で書いた「脳化社会」のひとつの状況とも言えるメタバースについては、興味を持っています。 たとえば、未来に向けて記録を残すツールとしての可能性です。 具体的には、自然がどのようなものだったかを映像や音で記録できます。 環境をぐるりと見渡す360度画像を、音も含めて5年、10年と定点観測で記録していったら、土地の立派なアーカイブになる。 自然そのものよりも情報を残す方が、安上がりでやりやすいかもしれない。
今現在の記録を、未来の人がメタバースを通して追体験できたら、考えることが変わってきませんかね。 スマホのような、誰もが持つ簡単なツールを通して、失われてしまったものを体験する時代がくるかもしれない。 人生にはいろんなありようがあるから、私は他人のことに口出しなどしたくありません。 ただ、若い人たちには簡単に死んでほしくない。 好きなことをとことんやってみてほしい。 虫なんて見ていたら、あまりにもたくさんいすぎて、時間が一生じゃ足りません。 三生はほしいくらいなんですよ。」
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