2022年12月06日

わが祖国

「田中美知太郎全集 26」 筑摩書房 平成二年 

政治とは国事である 古代ギリシャ人の国家意識ー 
ソクラテスの場合 p14〜

 「(現代人である)われわれが『クリトン』において見ることのできるのは、せいぜい国家と個人との間における権利の平等性ということかも知れない。それは国家をも、また個人をも絶対とはせずに、両者を相互的あるいは相対的なものと考えることを、少なくとも一つの可能性として示していると解されるかも知れない。しかし『クリトン』のソクラテスは、そのような相対性をも否定して、国家の絶対性を考え、かの個人的権利の絶対性を考える立場(友人クリトン)と正反対の立場にあることが知られるだろう。

 「母よりも父よりも、またその他祖先の全てより祖国は尊いもの、おごそかなもの、聖なるものなのだ。それは神々の間にあっても心ある人びとの間にあっても他にまさって大きな比重をあたえられている。だから、ひとはこれを畏敬して、祖国が機嫌を悪くしているときは、父親がそうしているときよりもっとよく機嫌をとって、それに譲歩しなければならないのだ。そしてこれに対しては、説得するか、あるいはその命ずるところは何でもなさなければならないのだ。またもし何かを受けることが指令されたら、静かに何でもこれを受け、打たれることであれ縛られることであれ、また戦争につれて行かれて傷ついたり死んだりするかも知れないことであっても、その通りにしなければならないのだ。正しさとはこの場合そういうことなのだ。そしてそこから退いても引いてもいけないのであって、持場を放棄することは許されないのだ。そして戦場においても法廷においてもどこにおいても、国家と祖国の命ずることは何でもしなければならないのだ。これに反して、暴力を加えるというようなことは、母に対しても父に対しても神の許したまわぬところであるが、祖国に対してはなおさらのことなのである。(51A-C)」

 というのがソクラテスの立場だからである。ここでは個人が国家に仕返しする「正しさ」(権利)などというようなものは考える余地が全くなく、ただ国家の命ずるところを何でも行い、何でも受ける「正しさ」(義務)があるばかりなのである。

 これは今日のわれわれの意識からあまりに遠くに離れた考えであると言われるであろう。しかしこれが古代のアテナイ市民の一人であったソクラテスやプラトンの意識であったことは疑う余地のない事実なのである。…

 今日われわれはいわゆる「革命の時代」に生きていて、革命とか反体制とかいうことを極めて安易に考え、口にするけれども、これをそのまま昔にもち込むことはできないのである。…今日われわれは、何かより高い進歩の段階にあると自負して、その過去を全面的に否定しようとする。明治の人間は天保時代の士族を嘲笑し、今日の戦後派は戦前派を軽蔑するというわけである。しかしわれわれのその批判の立場は充分確実なものなのかどうか、少なくとも歴史を理解するのに不十分なものであることは確かである。われわれは自制しなければならないのである。」

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過去は誤りか
 

posted by Fukutake at 07:48| 日記