2022年12月05日

このままでいいのか

「核武装論ー当たり前の話をしようではないかー」 西部邁 講談社現代新書 2007年

世論の支配 p150〜

 「オピニオンという言葉は「根拠の定かならぬ思い込み」ということを意味する。 だからそれは、明治の頃、たとえば中江兆民などによって「俗見」と訳されていた。 言葉の意味は文脈に応じて変わるとはいえ、その語の標準的な意味はそういうことだ、と知っている者がどれくらいいるのであろう。 文化系の学者連中においてすら、ほんの僅かに違いない。 なぜといって、彼らは、一年中「世論」を正当性の御印(みしるし)として使用しているからである。

 世論という名のプライマリー・パワー(基礎的権力)に全身全霊を預けておいて反権力を標榜するのがいわゆるレフト(左翼)である、というより近代主義者一般である。 これもまた(権力をめぐる)「イエスとノーの同時存在」にほかならない。 その卑劣と狡猾のおかげで、ソ連が「ペレストロイカ」で崩壊し中国が「改革開放」で資本主義に転換したあとでも、この列島で左翼が我が物顔で世界を闊歩しているのである。

 この男、その相反するものの同時存在を無下に否定していたのでもない。 ゲオルグ・ジンメルが「女性の媚態」の本質は「イエスとノーの同時存在」だといったことを、彼は知っていたのである。 それは、むろん、女性を礼賛する脈絡においてのことである。 それを解釈してみれば、男性が権力を使って女性を守ることについてはイエス、それを誇示して女性にたいして横暴に振る舞うのにはノー、という両面性を女性はその媚態の演じ方において結合している、ということであろう。 だから、上に述べた(理想と現実のあいだの)平衡感覚も、あたかも女性のコケトリー(媚態)のように、アムヴァレンス(両義性)をつねにたっぷりと包み込んでいる、と彼はわきまえていた。

 危機のなかでの決断においては単義的な言葉を吐かずにはおれないであろうが、それとて、「両義を断ち切る」のが決断だ、という流れにおいてのことにすぎないのである。 文化の成熟とはこの両義性を(状況のただなかで、しかも決然たる行為として)表現してみせることのできる(国民)言葉遣いの巧みさのこと、といってよいであろう。 それを実践して生きて死んでやろう、と彼は目論んでいたのだ。

 この男は、十八歳まで吃音患者であったせいなのか、「状況に応じた知恵ある言葉の遣い方」を習得し体現したくて、多方面の学問分野を(薄くではあるが)広く渉猟していた。 また、実践においても、多業種の人々と(社交を楽しむという形で)接触するのを好んでいた。
 その割には言葉遣いが下手ではないかというこの男を難詰するのは酷である。 この男には自分の(言葉遣いにおける)能力を表現し切る場が与えられていないのだ。 大衆社会の必然として、あるいは古今東西の「世の中」というものの掟として、あらゆるメディアが、「単純模型の大量流行」から逸脱する類の表現を拒絶する傾向にあるのである。」

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自決への覚悟



posted by Fukutake at 08:20| 日記