「考えるために」 アラン 仲沢紀雄訳 小沢書店 1990年
第十二の手紙 p67〜
「…思惟する頭脳は思惟された頭脳と同じものであることはない。誠実な精神の人々さえもはまり込んでいるように見えるこの泥沼からきっぱり抜け出すために、思惟するものは大きくも小さくもなく、近くも遠くもなく、内部でも外部でもなく、また運動しても休止してもいない、と言おう。なぜなら、思惟するものはこれらすべての関係を思惟し、これらすべての関係とその項とを含んでいるのだから。いかなるものも精神の外部にはなく、いかなるものも精神から遠くにはありえない。自分の精神から離れており、自分の精神には近づきがたいとわたしが言いたい場所、それもまたわたしの精神の中にある。身体が認識把握するとしても、身体は自分自身の限界内においてしか認識し把握することはできない。身体が宇宙を認識し把握したら、宇宙は身体の中にあることになってしまおう。
しかし、生きた身体こそ宇宙の中にあるのだ。いかにして部分が全体を含むことができよう。いかにして全体と諸部分の全体に対する関係とが、あたかも一つ箱の中に納めるように、一つの身体の中に納められようか。いかにしてわたしの頭の周りの宇宙が、承諾しがたいことばの遊びではなしに、わたしの頭の中にあると言えよう。
以上の省察から、君は、身体の中に、部分のない、不滅の、まことに知恵に富んだ表象の創造者たる魂を隠し込もうとすることがなんの利もないことが分かる。君が魂を結びつけるその場によって、魂はさらに事物の中の一つの事物、もっとはっきり言えば物体的な魂となる。ここではことばはほとんど問題ではない。むしろ、わたしは、宇宙そのものであるような一つの物体が思考すると考える方を好む。いったい、限界も大きさもなく、無形で厳密に統一体であり、その総体において永遠なる物体とはなんだろう。それはもはや一つの物体ではない。だが、この論法は論争に属する。物体がまったく思惟しないということを把握させるほんとうの理由は、すでに述べたように、物体がその充全の意味において把握、定義されてはいず、つねに全体との関係、全体との不可分な関係において思惟され、限定されているということだ。このことから、実体はすべて思惟されているということはあきらかだ。運動の思惟がなくては少しも運動はないのに、どうして運動が思惟しよう。だが、この点についてはもう十分だ。『テアイレトス』を読み返してみたまえ。この書物の中でプラトンが、なかば冗談のように、いかなる感覚にしてもそれが他の感覚と一緒になって複数をなしているのをみずから認識することはないとはっきり言っているのをみいだすだろう。…」
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2022年12月02日
物体(肉体)は思惟しえない
posted by Fukutake at 09:15| 日記