2022年12月01日

傲慢とケチ

「伝習録 −「陽明学」の真髄−」 吉田公平 タチバナ教養文庫 平成七年

p350〜
 「心とは心臓のことではない。あらゆる知覚作用の主体者が心なのだ。耳目が視聴作用をはたらかし、手足が痛痒を感じたりするが、耳目手足が知覚するのは、心が知覚させているからなのである。」

p389〜
 「先生がいわれた、「人生最大の病患は、傲慢の一事に尽きる。子でありながら傲慢であると必ず不孝をしでかし、臣でありながら傲慢であると必ず不忠をしでかし、父でありながら傲慢であると必ず不慈をしでかし、友でありながら傲慢であると必ず不信をしでかすことになる。だから、象*(しょう)と丹朱*(たんしゅ)がともに不肖であったのも、この傲慢の一事が原因であんな一生に終わってしまったのだ。諸君はつねづねこのことをとくとくわきまえなくてはならない。人間の人格はもともと天が然らしめた理法としてあるから、精一明澄であり、微塵も作為の介入する余地のない、無我そのものなのである。心中に絶対に我が有ってはいけない。有るとそれが傲慢となるのだ。古代の聖人たちの多くのすぐれた所とは、やはり無我であったからこそなのである。無我であればおのずから謙譲にできる。謙譲こそが全ての善の基礎であり、傲慢こそ全ての悪の首魁なのだよ」と」

象*と丹朱* : 象は舜の異母兄弟、丹朱は堯の子。両者傲慢であった。
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ケチ(吝嗇)と自慢(傲慢)は人の一番嫌うところ。

論語にも「子曰く、もし周公の才の美有るも、驕り且つ吝ならしめば、其の余は観るに足らざるのみ。」とある。【泰伯第八】



posted by Fukutake at 11:33| 日記