2022年11月28日

人生のなぞ

「小林秀雄全集 第六巻」− ドストエフスキイの生活− 新潮社版 平成十三年

人生の謎 p551〜

 「サント・ブウヴが、かういふ事を言つてゐる。
「人生の謎とは一體何であらうか。それは次第に難かしいものとなる。齢をとればとる程複雑なものとして感じられて来る、そしていよいよ裸な生き生きとしたものになつて来る」(Mes Poisons)
 何でもない言葉として讀み過ごす人もあらうし、心にこたえる言葉と感ずる人もあらう。言葉といふものは、みなさういふものだ。人間は言葉で何物も確實に證明する事は出来ないのだから。

 それは兎も角、このサント・ブウヴの言葉は、僕には心にこたへる。それは、一度聞いたら忘れられぬ音樂の一章句の様に、事に當つて心のうちで鳴る。或る人の思想がある人に傳はるといふ事はさういふ具合のものだ。それ以外の傳はり方はない、とも考へる。音樂の一章句の様に、分析もならず、解釋もならぬ様な言葉を人の心に傳へる事、これが詩人の希ひである事を、誰も疑ふまい。併し所謂思想家と言はれる人々は、かういふ健全な詩人の希ひを、子供らし安易な希ひだと思つてゐるのが普通である。罰はいづれ當るのだ。言葉による證明を過信して、空しい辨證家になり終る。

 僕は、ディアレクティシアンに用があつた事はないし、將來も用はないだらう。僕は、大變音樂が好きだから、喩へたいのだが、一度聞いたら忘れられない音樂の様な思想ばかりを探してゐる。どんな切れ端でもいい、事に當つて又しても心の裡(うち)に鳴る様な思想なら僕にとつては貴重な思想である。

 人生の謎は、齢をとればとる程深まるものだ、とは何んと眞實な思想であらうか。僕は、人生をあれこれと思案するについて、人一倍の努力をして来たとは思つてゐないが、思案を中斷した事もなかつたと思つてゐる。そして、今僕はどんな動かせぬ眞實を掴んでゐるだらうか。すると僕の心の奥の方で「人生の謎は、齢をとればとる程深まる」とささやく者がゐる。やがて、これは、例へばバッハの或るパッセージの様な、簡潔な目方のかかつた感じの強い音になつて鳴る。僕はドキンとする。

 主題は既に現れた。僕はその展開部を待てばよい。それは次の様に鳴る。「謎はいよいよ裸な生き生きとしたものになつて来る」。僕は、さうして来た。これからもさうして行くだらう。人生の謎は深まるばかりだ。併し謎は解けないままにいよいよ裸に、いよいよ生き生きと感じられて来るならば、僕に他の何が要らう。要らないものは、だんだんはつきりして来る。」

(「帝國大學新聞」、昭和十四年十月)

----


posted by Fukutake at 08:33| 日記