2022年10月05日

蝙蝠

「井伏鱒二全集 第十一巻」(随筆) 筑摩書房 1965年

蝙蝠(カウモリ) p250〜

 「名前は忘れたが、江戸時代の誰かの随筆集にカウモリに関する挿話があった。
「ある人が、家を修繕するために下見板を剥がした。 すると一匹のカウモリが、翼に釘を打込まれて荒壁に貼りつけられていた。 このカウモリは、逃げようとしたが、釘を中心にぐるぐると独楽のように忙しく回るだけであった。 もう何年か前に釘を打込まれたものだろう。 翼に釘穴をあけられている部分は、ふちが縫取りをしたように厚くなっていた。 剥ぎとった下見板には節穴があいていた。 その節穴から雄のカウモリが出入りして、釘付けになっている雌のカウモリに餌を運んでいたのだろう。 下見板を剥がした人は、自分が何年か前に、ずれ落ちそうになっていた下見板を釘で留めたことに思い当った。」

 これと同じような話を、同じ時代の他の文人も随筆集に書いていた。 その当時、これは人々の口の端にのぼった話だろう。 カウモリの夫婦愛を語る話として印象的であった。

 ー 私は戦争中、陸軍徴用でマライ半島に行きシンガポールに十箇月いた。 あるとき徴用事務所の裏手のマライ人小学校に行くと、マライ人の校長が死んカウモリを私に見せ、
「これを児童のために教材にしたらどんなものだろう。 母性愛について恰好な教材になると思う」と云った。
「このカウもりは、椰子の木の頂から飛び立って、見ているうちに空から落下して墜落死をとげた。 もし乳飲子を振落したら身軽になって助かったのに、子供がいとほしくて手放すことが出来なかったものと思う。 いま、自分はカウもりの母性愛に感動していたところである。」
 マライ人の校長はそう云った。

 私は下見板の釘に刺されたカウモリの話を思い出し、
「日本のカウモリは甚だ夫婦仲がよい。 それは文献にも云ってある。 マライのカウモリは、いま我々に母性愛の一例を見せた。 その死骸は教材として貴重だと思う。カウモリのことはマライ語で何と言うか。」
 私が手帳を出すと、校長はローマ字で「ブーゲンクロアン」と書いてくれた。 この話を、私はシンガポールで原稿に書いて日本の新聞に出した。 すると間もなく、日本内地の人から投書が来た。

 カウモリと言う動物は大脳の表面がのっぺらぼうで、したがって哺乳類のうちでもあまり智能が発達していない。 カウモリの子は生まれ落ちたときから歯を持っている。先の方が鋭い鉤(かぎ)のような乳歯を持っており、母親が飛ぶときでもその歯で胸毛に噛みついている。 椰子のてっぺんにいたカウモリは、おそらく蛇か何かに噛まれたので無我夢中で飛び立って落ちたのだろう。 母性愛でもって子を抱いていたのではない。…そういう意味の投書であった。

 私はそれについてマライ人の校長には云わなかった。」

昭和三十二年二月十八日発表 「東京新聞(夕刊)」に月曜ごとに掲載。
----

posted by Fukutake at 07:38| 日記