2022年10月04日

なぜ? どうして?

「「オーイ どこ行くの」ー夏彦の写真コラム 山本夏彦 新潮文庫 平成十四年

元凶は日教組と文部省 p352〜

 「子供の意見は聞いてはならぬと言うと、子供がなぜと口をとがらすのはまだしも、親たちまで口をとがらす。 子供の意見は意見ではないと私が言っても承知しないならヘーゲルが言っていると書いたことがある。
 お客さまがいらっしゃったら辞儀をせよと教えると、子は尊敬もしない人にどうしてと口答えする。 親たちは返す言葉がない。 こうしてあいさつは失われた。

 この世の中の九割まではなん千年来の習慣で動いている。 そのすべてを心得た上の「なぜ」が本当の「なぜ」である。 それまでは、「従え」と幼いうちにしつければすむのに日教組は何事も「なぜ」と問うのがいいことだと教えた。 体制側を窮地に追いつめる作戦である。
 そしたら遠足のあとで先生が作文を書かせようとすると、小学生はなぜ書かせる、口で言えばすむものをと騒いできかなくなった。 女子大生は小遣い銭を「体」で稼いで何が悪いの? 誰にも迷惑かけてないのにと怪しむようになった。

 こういう子供に育てたのはほかでもない日教組であり、親たちであり、文部省なのだから、いまさらとがめることはできない。
 お話変わってわが国の教育は外国語を大事にして国語を大事にしない。 外国語のスペルは一字まちがえても許さないのに、国語で綴る文なら久しく練習させない。 させてもお座なりである。

 それでいて大学生に五十枚百枚の卒論を書かせる。 二枚三枚の綴方さえ書いたことがないものに、百枚は途方もない長編である。 誤字脱字は正せるからいいが、岩波用語もどきの文脈の混乱は正せない。 文部省は「卒論白書」を編集してひろく国民に示すがよい。
 教育の根本は古典を教えることに尽きる。 文部省はつとにそれを放棄した。 卑近な例をあげると春の小川はさらさら流るをさらさら行くよに改めた、行くよとは何ぞ、流るは文語だから口語にしたのだそうだ、 前回のつつがなしや友垣も改めるだろう。 

 友人久世光彦は一葉女史の小説をテレビ化するに当たってテキストを読ませたら、その過半は読めなかったという。 近く鴎外も漱石も読めなくなる。 文部官僚の中心はすでに日教組育ちである。 だからこの小文も主旨分かるかどうか。」
(平成六年九月一日号)

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posted by Fukutake at 09:04| 日記