「山に生きる人びと」(日本民衆史2) 宮本常一 未来社
山中の畑作民 p202〜
「いわゆる山岳民が存在したであろうとおぼろげながら思うようになったのは昭和三十六年の夏以来のことである。 その夏八月、高知から大阪まで飛行機でとんだ。 海岸平野は水田におおわれており、その水田は平野から谷へと断絶することなく続き、はては山中の小さい枝谷の奥まで、木の根が土中に無数に支根をはっているようにのびている。 しかし、いつかは谷奥できえてしまう。 谷の両側や奥は森林になっているが、その森林の上に畑がひらけ、また民家を見かける。 この畑作地にはほとんど水田を見出さない。 畑作帯では畑のみを作っており、水田と畑作地帯の間には断絶がある。
これはいったい何を意味するものであろうかと考えて見たのであるが、このような現象は考えてみると四国山中のみではなかった。 九州の米良、椎葉、諸塚、五家荘、五木などにも見られた景観である。 とくに南九州には八重(やえ)という名称の地がたくさんあり、緩傾斜またはわずかな平地をさすものでハイともいっており、そういうところにも畑もひらけ、また集落も見られるのである。 しかもこの八重部落は標高八百メートルから千メートルの山の中腹以上に分布し、そのほとんどが畑または焼畑を耕作して生活をたてている。 そして隼人というのはもともと八重に住む人の意ではなかったかといわれている。
近畿地方の吉野熊野山中にもこのような集落は多い。 吉野西奥の天ノ河、大塔、十津川などの村々の大半は水田を持たず、焼畑、定畑を耕作し、その集落は山腹のやや緩傾斜面にある。
そこから伊勢湾を東にこえて、三河山中から天竜川筋にもそうした集落は多かった。 そしてそれらの集落の中には落人伝説をもつものもあるが、そうでないものも少なからずある。 たとえば、長野県下伊那郡上村下栗のごときもその一つである。 この部落は遠山川の作った峡谷の上の緩傾斜にあるが、下の谷から上って村をひらいたものではなく、東の赤石山脈の茶臼嶽をこえて、大井川の方からやって来たものであるという。 茶臼嶽は二千メートルをこえる高峻な山である。 そういう山をこえて、人の移動の見られたということは、山中の人がかならずしも川下の方から谷をたどって奥へ奥へとやって来て定住したとは考えられない、むしろ高い山をこえて、高いところから低いところへ下って来た例も少なからずあったものと思われる。 下栗もその一つで、下栗へ定住する前はその東の大野という所に住んでいた。 しかし大野では」十分食料も得られないので、さらに下の緩傾斜地を見つけて、そのに定住した。 そのあたりは栗の木も多く、その実がゆたかで、食料にもなるので、定住の条件はととのっていたわけであるが、この下栗の者が谷底に住む遠山氏と主従関係を結ぶようになったのは、今から四百年前といわれている。 それまでは同じ山中に住んでいても、山腹と谷底の間に交流がなかったというのである。」
『民俗学研究』三十二巻四号(一九六八)特集「山」に掲載。
-----