2022年09月12日

自己への言い訳ーあら探し

「自分をもっと深く掘れ!」新渡戸稲造 ー(「もったいない」生き方をするな!) 

 他人のアラ探しほど自分を惨めにするものはない p178〜

 「私は君子を気取りもしないし、聖人をてらおうとするつもりもない。しばしば述べる通り、私は欠点が多い。その数を列挙すれば、並の人よりも多いと自覚している私は性来、穏和でのびのびとした人間にはできていない。根性が曲がって生まれたために、一人前の人間になるには、普通の人よりいっそう多く骨を折った。その中でも最も努力したことは、人の欠点(あら)を見ないようにすることである。

 私は幼年時代から、人に会うときは、一見してその欠点を発見した。この性質があったから、大概の人を見ては癪に障り、したがって不愉快を感じた。
「あんな馬鹿な奴が威張っている」
「あんなけちな奴が大きな顔をしている」
 というように、見る人ごとに癪に障る種子となった。これだけならば、まだ自ら慰められたであろうが、自分を顧みてもまたそうであった。自分自身で気に障ることが多くあり、これはしてはならないと思うことをし、考えまいと思うことを考え。日に幾度となく、自分が自分の癪に障った。

 これは生涯中の最大不幸、最大欠点であると思い、これを矯正しようと思い立ったのは、私が十六歳のときであった。以来今日まで三十余年間、この点に注意してきたが、自然に人の美徳を見て喜ぶような徳を備えた訳でもない。すなわち、いわば無理に人為に努めて、この悪傾向を矯正したのであるから、決して世間の人に誇った顔をして、
「人の長所を見るには私のようにせよ。己の欠点を悟るには我がごとくせよ」と自ら模範を気取ることはできない。また、そんなことをしようとする考えは少しも抱いていない。ただ世の種々の人と語ると、私はほとんど同じ病をもっている者が多数いる。

キリストはかつて、
「我は健全なる者のために世に降りしにあらず、病める者のために世に現われしなり」と言った。私はむろんキリストの言をわが身に直接に応用するつもりはないが、この点においてはまったく同じ考えである。

 ただしばしば述べるように、私はすでに人間として完成の域に達している人々に呈する言葉は一つももたない。私と同等かあるいはたまたま私に劣る人があるなら、その人々のために一言するにすぎない。そして、世には私に劣る人はなくとも、私と同じぐらいの人は幾万もいると感じる点もあるから、人の欠点探しはいかに自分を堕落させ、かつ自分を不幸に陥れるものであるか、またこれによって得るところははなはだ少ないということを述べて、この悪癖のある人の反省を求めたい。すなわち私は、自分の病気の経験談をして同病者の参考に供するのである。」

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十六歳にして悟る
posted by Fukutake at 07:49| 日記