2022年08月30日

人生はあなたを見捨てない

「生と死のケアを考える」 編者 カール・ベッカー 宝藏館 2000年

患者のこころを支えるために 沖永隆子

 人間的つながりで捉える宗教的援助 p267〜

 「…またアウシュビッツ強制収容所での自己体験記録『夜と霧』の著者のヴィクトール・E・フランクル(一九〇五〜九七)も同様に、いくつかの著作の中でケアの本質に関連する示唆的な見解を述べている。
 まず、キーワードの「自己超越」「無意識的働きの脱自性」についてであるが、それらをこう端的にあらわしている。「たとえばこんなことを想像して見てください。あなたは一人の病人がかわいそうだとおもいます。あなたはかれに同情します。かれの身になり、かれを助けたいとおもいます。そのとき(中略)あなたは、その病人に対する同情そのものになっているのです。あなたは、そのときに、ほかの人を助けるという価値そのものになっているのです。これこそ、価値の実現的根源です。」(『宿命を超えて、自己を超えて』)

 この文脈で述べられる「同情」の持つ意味は、単なる哀れみや、「これだけしてやった」という自己欺瞞に陥る心情を指すのではないこと、特に、「その病人に対する同情そのものになっている」というのは、「慈悲」や「愛」の精神から発せられるものではないだろうか。
 次はケアされる側、患者の視点から考えたい。これは、特に、仏教における「死の受容」と本質的にかかわって来るものと思われる。「生きる意味」、「価値の実現的根源」に関するものとして、「苦悩と死は人生を無意味なものにはしません。そもそも、苦難と死こそが人生を意味あるものにするのです」(『それでも人生にイエスと言う』)とある。

 さらに、フランクルは、強制収容所で出会った、一人の若い女性の死の受容についてこう記述する。
 「私はこんなひどい目に遭わしてくれた運命に対して私は感謝していますわ。」(『夜と霧』)(バラック病舎の窓から見える一本のカスタニエンの樹から発せられた言葉から)「あの樹はこう申しましたの。私はここにいるー 私はー ここにー いる。私はいるのだ。永遠のいのちだ…。」(同書)

 フランクルは敬虔なカトリック信者であり、特に有神論的実存主義の立場であるので、ここで取り上げた見解自体、仏教的精神を意味したものではない。しかしながら、フランクルの「私が人生を見捨てても、人生は私を見捨てない」という「人生への意味づけ」は、仏教の「摂取不捨」と似た視点にあるのではないかと思われる。なお、のちのフランクル理論の解釈においては、禅的な「脱自性(あるがまま)」「とらわれからの脱却」を説く、浄土真宗・禅宗の森田正馬が創始した「森田療法」において、「逆説志向法」というアプローチの共通性があるとされている。

 一方、『死ぬ瞬間』で有名なアメリカの精神科医エリザベス・キュブラー・ロスも、死にいたる人間の心の動きを研究するために、徹底して患者から学ぶという姿勢を取り続けており、彼女自身インタビューを通じて、こうした「人間的つながり」の必要性を説いている。また、患者自身の「あるがまま」の態度をケアする側が理解し尊重し、精神的に支えることの重要性も説いている。精神的援助で大切な側面は、ケアする者とケアされる者との相互の信頼関係であり、一方的な関わりであってはならない。人間は本来、関係の中に生まれ、関係性の中で存在しており、「他者から必要とされている存在」や「自分が他者を必要としている存在」であることを自覚することにより、患者は自己の存在を意味づけることが可能となる。
 ケアする者とケアされる者との間に、人間的に成熟し支え合うといった「相互形成連関」を構築させることが、今後のターミナル・ケア、精神的援助に必要になってくるものと思われる。」

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posted by Fukutake at 08:00| 日記