「井伏鱒二全集 第十一巻」(随筆) 筑摩書房 1965年
記者いろいろ p211〜(旧仮名遣いを直しました)
「戦争が満洲から大陸全体に拡がって行きそうになったころ、私は某社の少年雑誌の注文で翻訳童話の連載を始めることになった。 連絡係の記者は美人系に属する中年の女性であった。 その女性が第一回目の校正刷りを持って来て、社の命令だから本文を三行ほど縮めてくれと云った。 でも翻訳だから我慢してくれと私が謝ると、それでは二行ほど削ってくれと云った。 それも勘弁してくれと謝ると、では一行でもいいから削ってくれと云う。 挿絵の空白を利用すれば五行や六行、何とでもなると思われるのに、文章を削らすことに何か快感を覚えているのではないかと思われる節もあった。 そういう社だと前々から聞いていた。 私はむかついたので、
「では掲載を止してもらいます。 君はああしろこうしろと、まるで年増女みたいじゃないか。」
と、うっかり無作法な口をすべらすと、
「では、これからは若い子をよこします。 私はもう参りません」と憤然として座を立って行った。 ところが暫くして、三時間か四時間するとまたやって来て、削らないでも間にあうから、どうか気を悪くしないで続きの原稿を書いてくれと云った。
戦争が苛烈になって出版界が軍人から圧迫されだしたころ、某婦人雑誌社で陸軍報道部の某佐官に原稿を依頼して単行本を出した。 (これは、その社の若い社員から聞いた話である。) その本は一向に売れなかったが、再版を刷る、三版四版を刷ると云って、検印紙を届けて検印判を捺させたそうである。 その実、版を重ねるというのは大嘘で、その将校を喜ばせるために重版だと云って印税を届けるていた。 印税の欠損は、売れない重版を出す損害にくらべると大したものではない。 宴会に呼んだときには社長がその軍人のために料理の鯛の骨をとってやっていたという。 この将校の機嫌をそこねると致命的なことに立ち至る。 そういう時代であった。 だが、作家は結局ちょろいから、うまいこと便乗した人は一人もいない。
戦争中に隣家の新聞記者から聞いた話だが、そのころとしても旧聞に属する昭和十年ごろの話である。
某新聞社に誠実で足まめな若い記者がいた。 記事をとることも拙くない。 何かにつけて念入りな人であった。 しかし文壇的なことは疎い人で、或るとき編集部長がその人に菊池寛のところへ電話をかけろと云って電話番号を云った。 その人は電話口に出た菊池さんに、
「菊地館ですか、菊池館ですか。」
と、下宿屋だと思って念を押し、菊池さんが「そうだ、菊池だ」と云っても「菊池館ですか」と念を押したそうである。」
初出 昭和三十一年執筆 昭和三十二年一月『文学界』に掲載
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戦中雑話