「モネの睡蓮について」 出展「イスラエル博物館所蔵 印象派・光の系譜」展 三菱一号館美術館 同展示会カタログより
p70〜
「…1903年に着手した「睡蓮」の連作は当初1907年の公開予定だったが、展覧会は2年遅れた。1908年にデュラン=リュエルに宛てたモネの書簡は、モネの苦悩を伝えている。
「あなたと同様に、私も「睡蓮」の連作を展示できないことは残念です。こんな結論に至ったのはそれが不可能だからです。たしかに私は自分自身に厳しすぎるかもしれませんが、でも凡庸な作品を展示するよりはましだと思います。それに私はたくさんの作品を展示したくて展覧会を遅らせるわけでは全くなくて、満足のいく作品があまりにも少なくてはお客さんをとまどわせるのではないかと思うからです。最大限に見ても展示可能なものは、5、6点しかありません、そのうえ少なくとも30点は破棄してしまいましたが、それで全くよかったと思っています。(…)さらに、この新しい連作をわずかな数でもよいから展示するというのは、大変間違った考え方だと思います。なぜならその全体的な効果は、まとまった数の作品を展示したとき初めて可能となるからです。」
ジヴェルニーの訪問者もモネの苦悩を伝えている。
「モネは狂ったように仕事をしている。制作中はまるで地獄で、彼は「豚のほうがおれよりましだ、おれはまったくの無知だ」云々と文句を言うことしかできない。彼の妻は(彼のコレクションの)セザンヌを彼の目の見えない場所に置くことに全力を費やしている、というのはこんなときにモネがセザンヌの作品を見ようものなら、描くのをやめてしまうからだ。」
1903年を起点として1908年までに完結する「睡蓮:水の風景連作」展への出品作品48点は、多くが池のほとりで着手されたが、連作の常としてアトリエで、他の作品と見比べながら、展示された時に最大限の効果を発揮するように調整が加えられた。
…展覧会に期日が近くにつれ、モネ氏は極端に怒りっぽく不機嫌になり、ついに実際に何枚かのカンヴァスを切り裂いてしまった。しかしながら大部分の作品は残されている。友人に説得されたモネ氏は作品を壁に向けて裏返し(…)気分転換と休養のために出かけた、残りの作品はおそらく来年展示されることになると思われる。
1909年1月、ついにモネは踏ん切りをつけて、先送りにしていた展覧会を同年5月に開催する。個別の作品には題名を付けず、「睡蓮:水の連作、クロード・モネによる」という展覧会名称を決めたのもこの時点であった。
モネの努力は間違いなく報われた。1909年の個展は大きな反響を巻き起こした。」
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モネの関心は植物としての睡蓮ではなく、「水とその反映」であるという告白をしている。