「中世の秋(上)」 ホイジンガ 堀越孝一訳 中公文庫
戦争と騎士道 p186〜
「十字軍計画を立案したのは、どんな連中であったか。その生涯をこのことにささげたフィリップ・ド・メジュールのような夢想家たち。そして、空想好きの政治家たち。たとえば、狡猾な打算の才をもちながらも、フィリップ善良候は、そのひとりであった。
この時代、なお王にして、イエルサレムの開放を生涯の仕事と考えぬものはいなかったのである。一四二二年、イギリスのヘンリー五世は、死の床についていた。このルーアンとパリの征服者は、フランスを悲嘆の底につきおとした征服行なかばにして、まだ若い生命を失うことになったのである。医者たちは、もはや二時間とは生きられまい、とかれに告げた。聴罪司祭をはじめ聖職者たちがあらわれて、七つの悔悛詩篇をうたいはじめた。「あなたのみこころにしたがってシオンに恵みを施し、エルサレムの城壁を築きなおしてください」。ここまでうたいすすめられたとき、王は読誦を押しとどめ、はっきりとした声でこういったという、フランスに平和をもたらしたあかつきには、イエルサレム征服に赴く決心であった、「それだけの生命をながらえることが、つくり主御神の思召しにかなうことであるならば」。そういい終えた王は、詩篇読誦を続けさせ、終わるとまもなく息をひきとった。
十字軍は、すでに久しく、特別税をとりたてるためのいい口実にもなっていた。フィリップ善良候もまた、この機会を盛んに利用している。所有欲に発する偽善ということになろうが、ただ、そういいきってしまうことは、かれの場合、おおいにためらわれる。むしろ、本気と名誉欲とが混在しているのだ。トルコ征服という、きわめて有益で、同時にまた騎士道に徹した計画をたてることによって、キリスト教世界の救済者としての栄誉を自分のものにし、かくすることによって、上級身分者たるフランスおよびイギリスの国王にまさろうとしたのである。「トルコ遠征」は、決して場に出されることのない切り札にどまった、シャトランは、これは嘘ではないと、候が本気だったことを強調している。そしていうには、本気ではあったのだが、めんどうな障害が多すぎた。まだ機が熟してはいなかった。長老たちは、首をふり、殿みずから、その老齢をおして、かかる危険な遠征を試みされ、候国と候家の血筋を危険にさらされることに難色を示した、うんぬん。
すでに、法王からは十字軍旗がおくられ、これをうやうやしく拝受したフィリップ候は、それを押し立てて、ハーグの町に、ものものしい祭列を組んだ。リールでの祝宴の席上、そしてそののちも、遠征の誓約は、ぞくぞく集まった。ジョフロワ・ド・トワジはシリアの港を調査し、トゥールネの司祭ジャン・シュヴェロは献金を管理し、ギヨーム・フィラストルにいたっては、もうすっかり旅装をととのえ、遠征用の船もすでに徴発されていた。
ところが、けっきょくは遠征は行われないだろうとの漠たる予感が、一般にひろまっていたのである。リールで候じしんの誓約にしてからが、はなはだ用心深いものであったのだ、すなわち、御神より支配をゆだねられた国々が、平和なやすらぎのうちにあるならば、出発しよう、と。こういった政治的はったりの大法螺として流行したのだ。」
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威勢だけの十字軍