「雪国の春 柳田國男が歩いた東北」 柳田國男 角川ソフィア文庫
明治三陸地震(一八九六年、明治二十九年六月十五日)の事
二十五箇年後 p123〜
「唐桑浜の宿という部落では、家の数が四十戸足らずのうち、ただの一戸だけ残って他はことごとくあの海嘯(つなみ)で潰れた。その残ったという家でも床の下に四尺あがり、時の間*にさっと引いて、浮くほどの物はすべて持って行ってしまった。その上に男の子を一人なくした。八つになるまことにおとなしい子だったそうである。道の傍に店を出している婆さんの所へ泊まりに行って、明日はどこかへお参りに行くのだから、戻るようにと迎えにやったが、おら詣りとうなござんすと言ってついに永遠に帰ってこなかった。
この話をした婦人はそのおり十四歳であった。高潮の力に押し回され、中の間の柱と蚕棚との間に挟まって、動かれなくているうちに水が引き去り、後ろの岡の上で父がしきりに名を呼ぶので、登って行ったそうである。その晩はそれから家の薪を三百束ほども焚いたという。海上からこの火の光を見かけて、泳いで帰った者もだいぶあった。母親が自分と同じ中の間に、乳飲児といっしょにいて助かったことを、その時はまるで知らなかったそうである。母はいかなることがあってもこの子は放すまいと思って、左の手でせいいっぱいに抱えていた。乳房を含ませていたために、潮水は少しも飲まなかったが山に上がって夜通し焚き火の傍にじっとしていたので、翌朝見ると赤子の顔から頭へかけて、煤の埃でゴマあえのようになっていたそうである。その赤子が歩兵に出て、今年はもう帰ってきている。よっぽど孝行してもらわにゃと、よく老母はいうそうである。
時刻はちょうど旧五月四日の、月がおはいりやったばかりだった。恐ろしい大雨ではあったが、それでも節句の晩なので、人の家に行って飲む者が多く、酔い倒れて帰らぬために助かったのもあれば、そのために助からなかった者もあった。総体に何を不幸の原因とも決めてしまうことも出来なかった。たとえば山の麓に押しつぶされていた家で、馬まで助かったのもある。二階に子供を寝かせておいて湯に入っていた母親が、風呂桶のまま海に流されて裸で命をまっとうし、三日目に屋根を破って入ってみると、その児が疵(きず)もなく生きていたというような珍しい話もある。死ぬまじくして死んだ例ももとより多かろうが、こちらはかえって親身の者のほかは、忘れらいくことが早いらしい。…
三陸一帯によくいう文明年間の大高潮*は、今ではもう完全なる伝説である。
明治二十九年の記念塔は村ごとにあるが、碑文の前に立つ人もない。今では村の人はただ専念に鰹節を削りまたスルメを干している。歴史にもやはりイカのなま干、または鰹のなまり節のような段階があるように感じられた。」
時の間* あっとい間
文明年間の大高潮* 文明7年8月6日(1475年9月15日)の暴風雨で大坂湾に高潮が発生、大被害が出た。
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歴史は繰り返す