2022年06月17日

漱石サンド

「漱石、ジャムを舐める」 河内一郎 新潮文庫 平成二十年

サンドイッチ p47〜

 「『三四郎』から、弁当のサンドイッチを食べるシーンである。

  二人が書斎から廊下伝いに、座敷へ来て見ると、座敷の真中に美禰子の持って来た籃(バスケット)が据えてある。蓋が取ってある。中にサンドウィッチが沢山這入っている。美禰子はその側に座って、籃の中のものを小皿に取り分けている。

 明治後期から大正時代にかけての日比谷公園内、松本楼のメニューにもサンドイッチ二〇銭と載っている。

「三四郎』では、広田先生の引越しで、美禰子が作ってきた弁当はサンドイッチであった。「新しい女」美禰子に、漱石は握り飯ではなくてサンドイッチを作らせた。「バスケットの中にサンドイッチが沢山入っている」と書いてあるが、何が挟んであったかは触れていない。中味がなんであったか、興味深い。
 当時の人は、現在の感覚では想像もつかないくらい大食漢であった。そこで美禰子も沢山のサンドイッチを作って大きなバスケットに入れて持って来たのであろう。その大きなバスケットを持ってきたことで、与太郎からひやかされることになる。

 漱石はロンドン留学中にサンドイッチを頻繁に食べたものと思われる。官費で支給される留学費では生活の苦しかった漱石は、古本を買い、下宿で猛勉強をしていた。特に昼食はビスケットやサンドイッチで済ますことも多かったと、『道草』の中に書いている。

 漱石にとって、学生時代に毎日、嫂(あによめ)の登世の作ってくれた弁当は、生涯のうちで最も思い出深い昼食弁当であったと思われる。
 登世は慶応三年(一八六七)生まれで漱石と同じ年であった。漱石が毎日学校へ持って行く、登世の作る弁当は、決まって竹の皮に包んであったそうである。
 次男の伸六氏はこの嫂について、こう記している。
 「私には、何だか、この嫂が、毎朝、義弟の為に、心をこめて、その海苔巻をつくってやったのではないかと云う気さえする。」(『父・漱石とその周辺』)

 登世は悪阻のため、明治二十四年七月二十八日、二四歳三か月で夭折した。漱石は正岡子規宛の書簡でその死を惜しんで、悼亡の句、一三句を書き連ねている。そのうちの六句を紹介する。

   朝貌や咲た許りの命哉
   人生を二五年に縮めけり
   君逝きて浮世に花はなかりけり
   何事そ手向し花に狂う蝶
   聖人の生れ代りか桐の花
   今日よりは誰に見立ん秋の月」



 
posted by Fukutake at 07:56| 日記