2022年05月26日

思想界のドンキホーテ

「Kotoba」 コトバ13号 (創刊3周年記念号) 2013年秋号

京都から考える 佐伯啓思 p23〜

 「失敗を運命づけられた京都学派
 西田哲学の基本的立場というのは、西欧的な主体というものを消して、「無」に近づいていくという点に求められます。そしてこの「無の思想」に、西洋思想を突破する日本の思想の可能性を見たのが「日本の世界史的使命」を唱えた京都学派でした。

 単純化していうならば、日本的な「無の思想」は「有」から出発します。「有」を求める思想は。結局、自由を求める闘争に帰着し、それは力によって利益を奪い合う戦争をもたらしてしまう。同時に、過剰な「有」=「自由」のなかで、人々はニヒリズムの混乱に陥ってしまう。自由を当然のこととして認識し、自由そのものに至高の価値としての実感がなくなってしまい、生きる目標が失われるからです。このように、「有」から出発するかぎり、精神的危機は免れないとひとまず言えるでしょう。

 それに対して脱主体的ともいえる「無の思想」は、「有」を求めないで、多様な現実をそのまま受け止めることができる。「有」の世界は勝つか負けるかという線引きが不可避であり、その決着をつけなければならないのに対し、「無」が根底にある日本の思想は、相手が弱かろうが、自分と立場が異なろうが、その現実を受け止めることができる。それは多様なものを含んだ「一」を可能とする。矛盾したものを矛盾したものとして統合できる。
 だから、この「無の思想」を持った日本が、世界史の表舞台に出て行き、新しい世界秩序を作っていかなければならないというのが京都学派の主張でした。

 しかし、そうやって無の思想を引っ提げて日本が出ていこうとする場所は、西洋が作り出した、主体と主体がぶつかり合う「有の思想」の戦場です。そんな場所で「主体はありません」と言ったところで、新しい世界秩序を作れるはずはなく、どうしたって「有」の争う論理に巻き込まれてしまう。脱主体化を主体的に実現するというのは、根本的に矛盾をはらんでいたのです。

 しかも近代日本は、その誕生から「西欧に対抗するために西欧化する」という大きな矛盾を抱え込んでいました。それを哲学者の高山岩男は次のように書いています。「東亜の植民地に最も強い抵抗を示した我が日本が、新たにヨーロッパ風の文化を移植するということは、単にそれだけみれば甚だ矛盾した不可解な現象である」(「世界史の哲学」)
 日本が開国して近代化を選んだ明治期から現在まで、私たち脱主体化(=日本化)と主体化(=西欧化)のディレンマを乗り越えることができていません。むしろ、無反省に近代を受容し、グローバリズムにどっぷり浸かってしまった現在の日本は、欧米以上にニヒリズムに陥っているとすら言えます。

 現在まで続く日本の矛盾を、無の思想によって乗り越えようとした京都学派の試みは、西洋中心主義に投げ込まれていく当時の日本ではぎりぎりの思想的な試みでしたし彼らが直面した課題は、いまもなお取り残されたままなのです。」

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posted by Fukutake at 08:03| 日記