「自省録」 マルクス・アウレーリウス 神谷恵美子訳 岩波文庫
五〇
「この胡瓜はにがい。」棄てるがいい。「道に茨がある。」避けるがいい。それで充分だ。「なぜこんなものが世の中にあるんだろう」などと加えるな。そんなことをいったら君は自然を究めている人間に笑われるぞ。もし君が大工や靴屋に向って、その仕事場に彼らのこしらえているものから出たかんな屑やけずり屑があるといって責めたら、その人たちに笑われることだろうが、それと同じわけだ。
ただしこの人たちはその屑を捨てるところを持っているが、宇宙の自然は自分以外になにも持っていない。しかしここにその技術の素晴らしさがあるのであって、自然は自分自身にかぎられておりながら、その中において腐敗したり、老廃したり、不用になったりしたように思われるものをことごとく自分自身に変化せしめ、これらのもの自体から他の新しいものを再び創り出すのである。こんな次第であるから、自然は自分以外の物質には用がないし、老廃物を捨てる場所も必要としない。自分の場所、自分の材料、自己独特の技術でこと足りるのである。」
五二
「宇宙がなんであるかを知らぬ者は、自分がどこにいるかを知らない。宇宙がなんのために存在しているかを知らぬ者は、自分がなんであるかを知らず、宇宙がなんであるかをも知らない。
しかるにこのような問題を一つでも等閑に附しておいた者は、自分がなんのために存在するかいえないであろう。しからば、自分たちがどこにいるかということも、何者であるかということも知らないで(むやみに)拍手喝采するような連中の(非難を避けたり賞賛を求めたりする)人間 −−こういう人間は君はどう考えるか。」
五八
「死を恐れる者は無感覚を恐れるか、もしくは異なった感覚を恐れるのである。しかし(死後は)もう感覚が無いのだとすれば、君はなんの害悪もかんじないであろう。またもし別の感覚を獲得するならば、君は別の存在となり、生きるのは止めないであろう。」
五九
「人類はお互い同士のために創られた。ゆえに彼らを教えるか、さもなくば耐え忍べ。」
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2022年05月10日
無駄な恐れを恐れるな
posted by Fukutake at 10:34| 日記