「哲学からの考察」 田中美知太郎 著 岩波書店 1987年
生命と生命以上のもの p12〜
「人間中心の目的論、すなわち人間が存在の究極目的であり、人間によってすべての存在は意味をあたえられるということは、人間の側から言うと、事実そのとおりのようにも思われるだろう。しかし人間自身は何のために生まれて来たのか、人生に何の意味があるのか、すぐには分からず、あるいは迷い、あるいは絶望したくなっているのに、どうして全存在に意味をあたえ、他の存在をすべて自分のためにあるというようにすることができるのか、よく考えてみると怪しいことになるだろう。
むしろわれわれは八方から制約され、外部の圧倒的な力の下に閉塞されていると考えたスピノザの認識の方が正しいかも知れないのである。あらゆる存在と価値の源泉を一般的な人間に求めるというようなことは、無理だと言わなければならない。むしろ目的なり意味なりの重心を存在の側にうつし、わたしたちはただそれを認識することができて、言わば神の眼で存在を見ることにあずかることができさえすれば、それをわれわれ自身の救いであり、自由であるとしなければならないのかも知れない。それはスピノザの流儀でもあるが、またベルグソンを超えてプロティノスにいたる途でもあるだろう。つまり存在と価値の源泉であり、一切の存在の目的となるものは、人間を超えた他者にあり、われわれもまた他の存在と共に、これにあずかり、これに帰一することによってのみ、自己の存在意味を獲得するのであるとすることである。
むかしから使われている言葉を用いれば、神というものに一切をあずけることでもある。プラトンはプロタゴラスに反対して、人間が誰でも万物の尺度となるのではなくて、知識ある人間だけが尺度になるのだと言い、更に、「神こそが万物の尺度である」と言ったが、つまりは存在価値の源泉は人間を超越したところにあるということであろう。
古代の目的論と近代の目的論との大きな相違は、近代のそれが人間中心であり、いかにも擬人的であるのに対して、プラトンやアリストテレスの目的論は、存在そのもののうちに完成と目的を求め、人間を万物の目的などにはしなかったことにあるのではないかと思う。人間はそれ自身が目的なのではなくて、やはり他の目的の下にある存在となるのである。つまり全存在について、あるいは生物進化のようなものだけに限って考えるとしても、そこには存在と価値との差別と階層、あるいは段階があることを認め、その尺度や目的となるものが別にあることを認めるのだけれども、しかしその目的や尺度をただちに人間とはしないような、そういう目的論が可能であり、それがプラトンやアリストテレスの目的論であったということである。
そしてその目的なり源泉なりを神とするとしても、それは必ずしもキリスト教神学の神に結びつく必要はなく、あるいはプロティノスなどの新プラトン派の哲学と考えてもよく、場合によってはもっと別に考えても良いことになるだろう。」
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2022年04月30日
人間の存在価値と意味
posted by Fukutake at 08:24| 日記