「小林秀雄全集 第十巻」− ゴッホの手紙 − 新潮社版 平成十四年
「武蔵野夫人」 p13〜
「大岡君の作品には、「俘虜記」以来、戰爭を經驗し、戰爭を題材とした多くの作品に見られない一つの特色がある様に思はれる。それは、戰爭が、純然たる個人的事件として執拗に回想されてゐて、政治的觀點は勿論、他のどんな觀念からも解釋されてゐない處にある。戰爭といふ、少なくとも自分にとつては、全く無意味な、偶然な、強制された經驗が、自分の心をどういふ風に傷つけ、どう言ふ具合に目覺ますか、その出来得る限り直接な意識、恐らくこれが、出征以来、過去は死に、未来は信じられぬ彼の精神の集中された的である。偶然による生還には復員者といふ彼獨特の觀念が必至であつた。これは、恰も第二の青春の様に彼をおとづれたが、彼は其處に、忍耐強い獨白によつてしか馴致出来ぬ不信と危險とのある事を感じた。それが彼の一連の戰記物である。
戰爭といふ異常な題材にも、讀者の好奇心にも頼らない、孤獨な作である。獨白は完了してゐない。「武蔵野夫人」は、半ば強ひられた試みの様に見える。ジャアナリズムは、作者のエゴティスムとは關係のない特權を持つており、作者は止むなくその中で、未だ獨白の完了しない復員者として、進んで冒險を希つた様に見える。ラヂゲの殘酷な手法が作者を誘つた。模倣は外面的になされる限り有効であるが、作者は武蔵野夫人の様な心の動きは、時代おくれであらうか、といふ逆説的なテーマにまで、のめり込んで行つた。冒險には抑制ががない。又、それ程、習慣的感情や社會通年への侮蔑、歴史的意匠への最大限度の不信は、この復員者には必要だつたのだと言へよう。
作者は、作中の人物達に、言はば、めいめいの性格といふ質を與へず、類型といふ量を分配し、出来るだけ日常生活の無意味さの中だけで動き廻つてゐる様に、その心理、感情、動作を工夫する。彼等はお互に共感せず、作者も又彼等から絶縁したい。作は戀愛を題材としてゐる。併し、それは人生で唯一眞實らしい人間同士の共感も虚僞である事を示す爲らしい。戀愛といふ、作者の言葉を借りれば「誓ひ」の嘘を明かす。「自殺が未遂に終わらなかつたのは、純然たる事故であつた。事故によらなければ悲劇が起らない。それが廿世紀である」と作者は言ふ。
評判のゲオルギウの「二十五時」も大規模な事故小説である。廿世紀とは悲劇に事故が取つて代つた世紀であるか。それは眞實らしい。が、それが作者の實驗室の眞實に過ぎない事も亦同程度に眞實らしい。藝術家は、いや人間精神は事故を信ずる事が出来ない。聰明な大岡君は、恐らく書いて了つてから自問してゐるであらう、人生の劇を、非人間的な事故の連續に解體して了つておきながら、一方、何故俺はこんなに自然の美しさを執拗に語つて了つたのであらう、と。」
(「新潮」、昭和二十六年一月)
-----