2022年03月18日

悪事のススメ

「面白半分」 宮武外骨 河出文庫 

むしろ悪を勧めよ p42〜

 「人というものは元来依怙地なのだから、他人が西向けといえば東向き、秘密だといえば聞きたがる。これは何人も免れないところの性情である。

 人生教育のこともこれと同理であって、今の教育家は無暗に善をなせ善をなせと、口を酸っぱくして頻(しきり)に喧(やかま)しく教育しているが、その効能が少ない。我輩が思うにはいくら教育家が善をさせようと力味(りきん)だところで、現今のごとく、人の模範となるべき輩(はい)があらん限りの悪事を働いて、国家の利益と国民の福祉を踏み付けにしている有様では骨折って善の教育をするだけが損である。現に国民の代表たる代議士でさえ白昼堂々と悪事を働く世の中じゃないか。彼らとても、もとより家庭や学校で悪いことをしろと教育せられたわけではなく、みな善の教育を受けた者であるが、それにもかかわらず悪事を働くのは、これこそ天性の依怙地が然らしむるところである。こんな依怙地な人間どもにいくら善をせよといったところでその効能はない。かえって余計に依怙地になって悪事をするばかりである。

 今日の社会は多くの人間がみな悪事を働いているのであるから、よしたまたま真面目に善事をしようとする者があっても、その境遇が悪事をなさしめることになるのだから仕方がない。亜聖パウロもこんなことをいっている。
 善は我すなわち我が肉におらざるを知る。そは願うところ我にあれども善を行うことを得ざればなり。我願うところの善はこれを行わず、かえって願わざるところの悪はこれを行えり。パウロでさえもその良心は依怙地の性に勝つことができなかったと見える。さればまして依怙地の強い下品の人間どもが、善をなせといわれてもやはり悪事をするのはやむをえないことである。
 だからいやしくも国民全体を善に導かんとならば、よろしく悪事をなすことを奨励すべしである。そうすれば彼らはまた依怙地になって、みな競って善をなそうとするに違いない。

 もっともそうなれば、十年一日のごとく廉(やす)月給で馬鹿正直に勤めているような教員どもは、訓導たるの資格がないから、ドシドシ放逐してしまって。教職はなるべく悪事に卓越した人間を選び、読本等もむろん改訂して、さかんに石川五右衛門や鼠小僧などの遺跡を研究さすがよい。

 どうだヘッポコども、真面目にこの名案を実行してみる気はないか。物は試しじゃ。もしも実績が挙がらなかったところで元々の話で、悪社会は依然たる悪社会であるだけじゃないか。

 こんな極端論を唱えたこともあった。」

(大正六年五月発行「面白半分」より)

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屁理屈だが、肯首させるものがある。
posted by Fukutake at 10:10| 日記