「明治劇談 ランプの下にて」 岡本綺堂著 岩波文庫 1993年
p202〜
「その七月(一八九四年、明治二十七年)には、日清戦争が始まった。この戦争はわが演劇史の上にも記録すべき重大の出来事であった。書生芝居とか壮士芝居とかオッペケ芝居とか呼ばれていた各種劇団が、いわゆる新演劇としてここにいよいよその地盤を踏み固めたのである。この戦争では、在来の歌舞伎俳優らが書生芝居と相対抗して甚だしい敗北を招いたのであった。
戦争が起こると同時に、大小劇場では競って戦争劇を上演することになったが、そのなかでもこういう機会をつかむのには抜け目のない川上音二郎は、その九月、浅草座で真っ先に戦争劇を上演した。日本の新聞記者が捕虜になって、李鴻章の前に牽き出されて気焔を吐くというような場面が主となっていて、他は新聞の戦争記事の切り抜きのような、芝居らしくもないものであったが、真っ先に際物を出しただけにその人気は素晴らしいもので、川上と藤沢とが新聞記者に扮していたが、高田実の李鴻章が非常に評判がよかった。高田はそれで売出したのである。水野好美や伊井蓉峰も加入していた。戦争の場では、実弾に擬した南京花火をぱちぱち飛ばして、しきりに観客を脅かしたりして、この興行は大成功であった。
それに倣って、所々の小芝居でも戦争劇を続々上演するようになったので、大劇場でも動かずにはいられなくなった。明治座は十月、歌舞伎座はでは十一月興行に、いずれも新作の戦争劇を上演した。明治座の「会津土産明治組重」は竹柴其水の作、維新の会津戦争から今度の日清戦争までを連続して脚色した通し狂言で、むかしの戦いと今の戦いとを対照して見せたようなものであった。その中で、築地のシナ人の別れが面白く、左団次のシナ人と秀調の女房とが好評であったが、肝腎の日清戦争の場は妙な格好をした軍人が大勢出るので打(ぶ)ち毀してしまった。歌舞伎座の「海軍連勝日章旗」は桜痴居士の作、これは大島公使の談判から原田重吉の平壌玄武門先登を脚色したもので、団十郎は大島公使と御用船の水夫と原田重吉の父の三役に扮し、菊五郎は原田重吉に扮したが、初めから仕舞いまで殆ど劇的の場面がないので、その当時新聞紙上を賑わしていた原田重吉の功名譚という以外には何の興味もひかなかった。…」
-----
この戦争劇競争は、結局書生側の勝利に帰した。