「宮本常一」ちくま日本文学全集 より 筑摩書房 1993年
昔の僻村 p157〜
「近江湖北は雪の深いところである。柳ヶ瀬トンネルあたりは冬になるとよく汽車の往来をはばむ。そういうところに人々はどんなに暮らしているであろうかと思って、私は昭和一三年三月の末に高時川の谷あいの村をたずねてみたことがあった。北陸線中之郷駅で汽車を捨てて低い峠を東にこえると高時川の谷すなわち丹生村になる。丹生の村は下の三つを除いては川添いのわずかばかりの平地に家が一〇戸二〇戸と密集している。四囲は高い山で、まことにふかくこもったという感じの部落が一〇丁ないし三〇丁くらいの間隔をおいて六つあった。
私の訪れた頃は菅並(すがなみ)というところから小原までの間はまだ三尺道のところが多くて、その奥には車さえ通じがたい文化があった。雨のそぼふる日で、暗くジメジメしていたのであるが、途中には雪崩がいくつも出てその道を破壊してしまい、雪崩の上をおそるおそる越えて歩いたものである。そうして田戸(たど)というところまで行って宿をとった。田戸は一一戸ほどの部落で宿屋はない。そこの民家にとめてもらった。昔のことがききたいのだがというと、区長さんがいいだろうとのことで、わざわざ呼んで来て下さった。六〇前後の人であった。私はこの人から村のこまごまとした暮し向きのことをきこうと思ったのだが、そのまえに、まずこの地がいかに住みにくいかということを聞かされた。区長さんの記憶を辿ってみただけでも、明るい思い出よりも暗い思い出の方が多いという。
田戸は北から流れる高時川と東から流れる川並川の合流点にある。川の蛇行によってできたわずかばかりの川原に住家をたて、いつも水におびやかされつつ生きている。雪解け頃に増水が甚だしくて、水が地面にあふれることは少なくない。しかしそうした年々の記憶の中でも、明治二八年と九年の洪水は特にひどかった。これは雪解けではなく豪雨による洪水であった。二八年の方は七月二四日から降り出した雨が二八日に豪雨となり、下の方では増水一丈七尺*に及んで河岸を荒し家々を流した。交通は完全に杜絶してしまって、下の方の菅並、上丹生、下丹生などへ連絡がとれなくなったために、板片に文字を書きこれを川に流した。まるで康頼の流卒塔婆*のようなものであった。この流し板は田戸だけでなく他の部落からも行なうたのであるが、完全に目的を果たしたのは康頼様の場合と同じく一枚だけであった。それも数日の後、水が引いてから川原にかかっているのを丹生の者が見つけてひろったのである。それには 「人家九棟ソノ他二十一棟浸水シ小屋一棟流出シ本家二棟破損増水ハ五尺一時非常ノ騒」とあった。」
*一丈は一〇尺、約三メートル。
平康頼が、都を恋うて千枚の卒塔婆を和歌など書いて流した。そのうち一本が*厳島神社に流れ都に伝えられて、同情を呼び赦免されたという故事。
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当時の災害とその結果はさぞひどかったであろう。思いに余ります。