「永遠の哲学」 オルダス・ハクスレー著 中村保男訳 平河出版社
宗教(宗派)における自己欺瞞 p327〜
「…イギリス人とスペイン人が新世界アメリカ大陸に導入した奴隷制度に対する最初の合同抗議は、一六八八年にジャーマンタウンでのクエーカー集会によって行われた。この事実はきわめて意義深いもので、十七世紀のキリスト教派全体の中で、歴史に執着することが最も少なく、時間内の事物に対する崇拝熱が最も少なかったのもクエーカーなのである。彼らは次のように信じていた。内なる光はどの人間にもあり、その光に従って生きる者たちにこそ救いが訪れるのであり、歴史的ないし擬似歴史的な事象を信じていると表明することや、一定の儀式の執行や、あるいは特定の教会組織による支持などに頼っている人たちはそのかぎりにあらずなのだ、というのがクエーカーの信条だったのである。…
この論理に従うと、すべては次のようになる。「利己と偏頗は、この世のものの中にあってきわめて非人間的で低劣なけいこうであるが、宗教の教理においては、それに輪をかけて低劣なものとなる。そこでだが、教会の分裂がもたらした最大の悪がこれなのであり、これゆえに、あらゆる分派内に利己的で偏頗な正統論が起こり、自分の教派にあるものなら何でも勇気をもって弁護し、ないものはすべて非難するということになる。こうしてすべての宗派の代表選手は、自分たちが信じている真理、自分たちだけの学識、自分たちの教会を弁護する術を教えられ、自分たちの間にあるものなら何でも好み、何でも弁護するくせに、違う宗派のものは一つのこらず検閲しなければ気の済まない人が最大の功労者で最大の名誉に輝く。そこで問うが、真、善、合一、宗教といったものが、それらを弁護している当の人たちの手によってほど大きな打撃を受けることはないのではあるまいか。…
だが、私としてはあえてこう言いたい。エルサレムにできた最初の教会に属した最初のキリスト教徒の片寄ることのない愛と、使徒の信心深さをもつ人を一人ずつでも各教会が生み出して、このような信心深いプロテスタントとカトリック教徒とが交渉のテーブルに就いたとするならば、二派合同の条文を書きしるすのに必要な紙は半枚で足り、時間にしても、ものの三十分とたたぬうちに合一教会が成立するであろう。したがって、教会が分裂し、互いに疎遠になり、友好関係を失っていくのも学問、論理、歴史、批判が一方的に片寄った人たちの手に握られているからだと言わなくてはならぬとしたら、それは特定の教会があまりにも自分の正しさを証明するのに躍起になりすぎているからであろう。…」」
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宗派は分裂し続ける。