「小林秀雄全集 第五巻」− 文藝批評の行方− 新潮社版 平成十四年
「i・自傳」 p202〜
「この本は實に面白い。近頃は讀書の癖がすつかりよくなり、寝床の中で本を讀むなどといふ事も絶へてないが、こいつはつい床の中まで持ち込んで寢そびれちまつた。
もV諭吉の全集は十七巻に上る浩瀚なものだそうだが、この自傳を讀んで他の著作を讀みたいといふ氣は起こらなかつた。今日の讀者の心を捕へる事が出来る要素、彼の著作のうちにあるさういふ要素は、悉くこの自傳の裡に凝つてゐるに相違ないといふ印象を受けた。あのあわただしい時勢にあわただしく考へ、巧みに時の流れに飛び乗つたこの啓蒙思想家の思想に大したものがあらう筈がないといふ風に漠然と考へてゐたが、この本はそれをはつきり掴ませてくれた。自分はただ文明文明と叫んで来た男だ、と彼は正直に書いてゐる。
しかしこの本の魅力はさういふ處には決してないので、要するにもV諭吉といふ人間の魅力なのであるが、一層くはしく言へば、彼が自分の抱懐した思想の實際の生かし方、思想を生活理論化するその仕方の魅力なのである。この本に於けるこの魅力は實に強烈だ。だが考へてみると思想家で思想を生活理論化出来ない様なのは皆ニセモノに相違ない。どんな思想も少なくともその思想を抱いた當人には實踐的意義を帯びてゐなければ、凡そ意味をなすまいと思はれる。若しこの自傳を私小説と考へれば、そのテエマは「思想はいかに人間の裡に生きるか」といふものになる。そして充分成功した文學作品と言へる。
幼少の頃の話に、殿様の名を書いた紙を踏んで兄から叱られ甚だ不平で、子供心に思索して、神様の名のある神札(おふだ)を踏んだら如何だらうと思つて密かに實驗してみたが何ともない。そこで一歩進めて手洗場に持つて行つたがこれも何でもないと解る、更に一歩進めて稲荷様の社を開けて石を入れて置いて観察する事にする。何んでもない様だが、この本を讀むとこれが彼の生涯守り通した思想獲得の方法だつたと解る。西洋の教養といふものがオランダ語や英語で彼の頭に這入つて来たのではない。文明開化といふ観念を一歩一歩實生活の上で獲得し、證明して行つたのである。僕にはかういふ態度は實に近代的に見える。今日の啓蒙思想家等が覺え込んだ教養と眞の實踐的な思想とを混同して悧巧さうな顔をしてゐる有様などに較べると同日の談ではない。」
(「文學界」、昭和十二年七月)
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2022年03月01日
プラグマティズムの権化
posted by Fukutake at 07:58| 日記