「漱石の京都」 水川隆夫 平凡社 2001年
漱石作品に表れた京都 p174〜
「「彼の気分を変化するに与って功力のあったものは京都の空気だの宇治の水だの、色々ある中に、上方地方の人の使う言葉が、東京に育った彼に取っては最も興味の多い刺激になったらしい。何遍もあの辺を通過した経験のあるものから云ふと馬鹿げて居るが、市蔵の当時の神経にはああ云ふ滑らかで静かな調子が、鎮経剤以上に優しい影響を与へ得たのではなからうかと思ふ。」(「松本の話」十)
と語っている。市蔵は、手紙に中で、
「僕は此辺(このへん)の人の言葉を聞くと微かな酔(よひ)に身を任せた様な気分になります。ある人はべたついて厭だと云ひますが、僕は丸で反対です。厭なのは東京の言葉です。無暗に角度の多い金平糖のやうな調子を得意になって出します。さうして聴手の心を粗暴にして威張ります。」(同前)
と述べている。
こうした関西旅行が「薬」(「松本の話」十二)になって、市蔵の「神経」(同前)はやわらぎ、「性癖」(同前)は次第に直っていく。漱石は、京都をはじめ上方の自然や風物や言葉などが「鎮経剤以上」に人の心を安らかにすることを記している。この気分の変化には、彼の体験からくる実感が反映していることはいうまでもない。「虞美人草」の天竜寺の場面で、漱石は、宗近君に「おれは寺へ這入ると好い気持ちになる」と言わせているが、これは漱石自身の気持ちだった。
京ことばについては、すでに明治二十五年(一八九二)の最初の京都旅行の時から好感をもっていた。漱石の俳句の中には、先にも挙げたように、
花を活けて京音の寡婦なまめかし(明治三十年)
京音の紅梅ありやと尋ねけり(明治三十二年)
などがある。
「門」や「彼岸過迄」に至ると、「虞美人草」ではまだ残っていた江戸っ子漱石の京都や上方に対する対抗意識が薄れて、東京と京都(上方)とをそれぞれに長所と短所はあるが、異なった個性的な文化をもつ地域として、ともに尊重しようとする意識に成長しつつある。漱石が大正三年(一九一四)の講演「私の個人主義」で述べた「自己の個性の発展を仕遂げやうと思ふならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないといふ事」は、個々の「人間」に対してばかりでなく、さまざまな「地域」や「文化」に対してもあてはまるべきだということが、彼の思想として定着しはじめているように思われる。
「神経の鋭く動く性質(たち)」(「須本の話」七)であった漱石が、時折京都を訪れたいと強く欲求をもったのも、景観や寺社や芸術など京都の自然と文化に心をひかれたのも、心のふるさとへ帰ったように神経の疲れを癒し、再び東京へ出て積極的に活動したいと考えていたからにちがいない。」
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心のふるさと