2022年02月23日

頭のよさ

「アラン人生語録」 井沢義雄・杉本秀太郎訳 彌生選書

なせばなる p83〜

 「だれは頭がいい、だれは頭がよくない。私はこういう言い方を聞くのに、ずっと前からもう倦きあきしている。
 人間を判断するあの軽々しさというものは、もっとも悪しき無礼のように思えて、私はぞっとする。よしんば人からどんなに無能なやつだと判断されようとも、順序をふんですすみ、そして絶対にヤケクソを起こさないでいながら、それでも幾何学をものにしない人間というものが、考えられるかどうか。幾何学からさらにすすんで、もっともけわしい探求にと辿る道中は、とりとめなき想像力から幾何学にと辿る道中とまさに同じである。ふみわたるべき難所は同じことである。我慢のない人にはとても越せそうにないが、我慢があるうえに一度にひとつずつの困難しか取り上げない人には、いたってたやすく越せる。あの科学における発明、および世に天才と呼ばれるところのものについては、長い労苦があってこその結果なのだ、というだけで、私は十分である。そこで、なにひとつとして発明していない人があれば、それは発明してやろうと思ったことがなかったからでないかどうか、私は知りかねるのである。

 幾何学の冷やかな顔を前にしてたじろいだその同じ人間に、二十年のへだてをおいて会うと、彼は自分で択びかつ深入りしたひとつの技能に今ではたずさわっている。しかも彼は、その実地に営んできた事柄において十分な頭脳を示しているのを、私はたしかめる。ところが、必要なだけの労苦もせず、まず即興したがる人たちは、いかにも分別もあり、ほかのことではなかなか堪能なのだが、さて当の技能に関すると、おろかなことを口にする。良識的な問題においては、彼らは例外なしにみな、まるでなっていないのを私はたしかめる。彼らはことばを用いる前に、まずよく見ようとは決してしたがらぬからである。そこからして、私はふとこんな考えを思いついたのだが、人はめいめい、ちょうど欲するだけの頭のよさを持つものである。言語は、このことを私に十分学ばせえたであろうに。なぜかといえば、「低脳な」という語は、古くはまさに「弱い」という意味であったから。かようにして、民間の本能は、判断力のある人間をバカから差別するものを、いわば指さしてでに示しているわけである。意志。むしろ労苦といいたいと思うが、後者に缺けているのはこれである。

----
人は欲するだけの頭をもつ。
posted by Fukutake at 08:22| 日記