「死すべき定め」 − 死にゆく人に何ができるか− アトゥール・ガワンデ
原井宏明 訳 みすず書房 2016年
勇気 p231〜
「紀元前三八〇年、プラトンは『ラケス』(対話篇)を著した。これはソクラテスと二人のアテネ人の将軍が、一見単純に見える問答を繰り返す、という内容である −−たとえば、勇気とは何だろうか? ラケスとニキアスの二人の将軍は軍事教練中の若者たちに鎧兜を着て戦闘することを教えるべきか否かについて意見が分かれ、解決を求めてソクラテスの許に訪れた。ニキアスはそうすべきだと考えた。ラケスはそうすべきではないと考えた。
ふむ、では教練の究極の目的とは何だろうか、とソクラテスが尋ねる。
若者たちに勇気をうえつけるためだ、と彼らは結論した。
それならば、「勇気とはなんだろうか?」
勇気とは、ラケスが応じる、「逆境に耐えうる精神力のことだ」。
ソクラテスは懐疑的である。彼は何かに耐えうることではなく、何かから撤退したり、さらに逃げ出したりすることであっても、勇気と呼べるときがあることを指摘する。愚かな辛抱というものもありはしないか。
ラケスは同意するが、もう一度反論を試みる。たぶん勇気とは「賢い我慢」だ。
この定義はより適切に思える。しかし、ソクラテスは、勇気が知恵とそこまで密接に結びついている必要があるかどうかについて疑問を投げかける。愚かな理由だが何かを追求する人間を勇気があると尊敬することはないのだろうか? と彼は尋ねる。
たしかに、そういうことはある、とラケスも認めた。
ここでニキアスが議論に参加してくる。彼が主張するには、勇気とは単純に、「何を恐れるべきか、何を望むべきかを見分ける知識であり、戦争中やそれ以外の場合も含む」。しかし、ここでもソクラテスは意見の矛盾を見つける。なぜなら、未来に対する完璧な知識がないときでも勇気は持つことができる。実際、そういうときにこそ勇気が必要なことが多い。
二人の将軍の意見はソクラテスによって論破された。この物語は勇気についての最終的な定義ができないまま終わる。しかし、読者は答えの候補にたどり着くだろう −−勇気とは何を恐れ、何を望むかについての知識と向き合える強さである。知恵は分別の強さだ。
老いと病いにあっては、少なくとも二種類の勇気が必要である一つ目は、死すべき定めという現実に向き合う勇気だ −− 何を恐れ、何を望みを持つかについての真実を探し求める勇気である。この勇気は難しく、持てないのも当然だ。真実から目を背けたい理由はいくらでもある。しかし、さらにもっと厳しいのは、二つ目の勇気だ −− 得た真実に則って行動する勇気である。何が賢明な道なのかはしばしばあいまいであり、それが人を悩ませる。長い間、私はそれを不確実性のせいだと単純に考えていた。この先の予測が難しければ、何をすべきかを決めるのが難しくなる。しかし、いろいろ経験するうちに本当のハードルは不確実性よりももっと根本的なことだと気づいた。恐れか望みか、どちらが自分にとってもっとも大事なのかを決めなければならないのだ。」
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「難しいのは、恐れか望みか、どちらが大事なのか決めなければならない。」
“the challenge is more fundamental than that. One has to decide whether one’s fear’s or one’s hopes are what should matter most.”
(「Being Mortal」 Atul Gawande –Medicine and what matters in the end)より