2022年02月21日

文化は南から

「海上の道」柳田國男 岩波文庫

まえがき よりp6〜

 「…日本人が主たる交通者であった時代、那覇の港が開けるまでの間は、(沖縄諸島の)東海岸地帯は日本と共通するものが多かったと想像できる。言葉なども多分現在よりも日本に近かったのだろうと思う。首里・那覇地方は一時盛んに外国人を受け入れて、十カ国ぐらいの人間がいたというから、東側とは大分事情が違うのであった。

 本島の知念・玉城から南下して那覇の港へ回航するのは非常に時間がかかる。その労苦を思えば宮古島の北岸へ行くのは容易であった。那覇を開いたのは久米島の方を通ってくる北の航路が開始されてからであるが、それは随時代のこととされている。この北の道はかなり骨の折れる航路で船足も早くなければならず、途中で船を修繕する所が必要であった。余程しっかりした自信、力のある乗手であるうえに、風と潮をよく知っている者でなくてはならなかった。

 沖縄本島は飛行機から見ればもちろんだけれども、そうでなくても丘の上にあがると東西両面の海が見える処がある。其処を船をかついで東側から西側へ越えれば容易に交通ができると考えるかもしれないが、しかし人の系統が違うとそう簡単には行かない。

 私が一番最初それを感じたのは、NHKの矢成君たちが国頭の安田(あだ)、安波(あは)の会話を録音してきたのを聞いたときである。最初は日本本土の人たちが移住して来たのではないかと思ったほど、こちらの言葉とよく似ていた。しかし直ぐにそれが間違いであり、もともと内地の言葉とそう変わっていなかったのだということに勘づいた。東海岸と西海岸とはいくら距っていないけれども、文化発達の経路が違うために言葉や住民の構成などが異なっているのである。

 勝連文化と私は仮に呼んでいるのだが、その勝連文化と首里・那覇を中心とした文化、すなわち浦添文化とでも言うべきものとの間には、系統上の相違があったのではなかろうか。…
 往時わが国では如何なる船を使って南北の間を航海したのであろうか。専門の造船業者のなかった時代を考えると、船材の得られる場所をみつけて、そこで船を造って用いたに違いない。たとえば安芸の国、それに周防など、今も船材を多く出しているし、中世においては建築木材を出しており、奈良の大きな寺院の建立などには常に用材を供給していた。…」
(昭和三十六年)

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沖縄地方との交通
posted by Fukutake at 13:39| 日記