2022年01月25日

死を看取る

「看取り先生の遺言」(2000人以上を看取った、ガン専門医(岡野健医師)の「往生伝」)
奥野修司 著 文春文庫 2016年

看取る家族の不安 p233〜

 「私(岡野医師)自身が在宅で患者さんを診てきて、在宅のまま最期を過ごせないケースの半分は介護福祉の問題であり、残りの半分は看取りを支えられないからである。

 看取りを支えられないのは、戦後、死が隠されてきたことにある。
 欧米の町には必ず教会があり、周辺に墓地があって、死と隣りあわせになっているのが基本的な町作りだが、日本の新しい町にはお寺も神社もなければ墓もない。死の香りを全部排除した町が作られてきたのである。これほど死を町と生活から排除した歴史は、世界史の中でも現在の日本だけではないだろうか。

 その上、病院死が八割という圧倒的な数を占めたことで、死を見た経験がない者が多数派となり、看取りの文化が壊れてしまった。人が死ぬ過程を見たことがない人間にとって、医者も看護師もいないところで、肉親が死んでいくところを見据えるのは、想像を絶するほど理解しがたいことなのだ。

 看取りの不安感について調査すると、緊急で往診してくれないから悪いんだとか、トンチンカンな答えが返ってくる。緊急往診の数を増やしても、家族の不安を解消できないだろう。人の死を見たことがないから、怖いのである。
 人が死ぬ過程を見たことがない家族には、亡くなるまでの過程を教えることで、ある程度の準備はできる。
 たとえば、最後まで家族の声は聞こえているから、声をかけてあげなさいとか、ご飯を食べられなくなったら、体が要求しなくなったのだから、そのままにしてあげなさいといったことである。水が飲めなくなる、おしっこが出なくなる、痩せてくる、喉を通らなくなる、意識が虚ろになる、死前喘鳴(ぜんめい)といって喉をごろごろ鳴らす等々は、決して病気ではなく、死に至る過程で避けられない現象なのだと説明することで、ある程度は安心して看取れるようになる。が、それだけで不安感が収まるわけではない。

 まだ意識が清明で、「なんで俺が死んでいかなきゃならないんだ」とか言っているときは患者さんのケアが大切であることはいうまでもない。が、肉体が衰えていき、「お迎え」が出る頃になると患者さんは楽になり、逆に看取る家族にケアの比重が移るのである。このとき家族の「見ているのがつらい、怖い」といった不安感を支えていくような場づくりがなければ、たとえ在宅がよくてもどこかで行き詰まってしまう。

 昔は死に逝く本人や家族の不安感を和らげるための儀式があった。たとえば、臨終に際して、枕元に阿弥陀来迎図を飾り、そこから引いた紐を死にゆく人に握らせ、枕元でお経を読んだのもそうである。こういう儀式があるから心が穏やかになるだけでなく、看取る家族はしっかり見送ってやろうという気持ちになれる。人間は、儀式によって死の不安から守られてきたのである。ところが、すべて合理的に解釈できると思ったとき、合理性のない儀式はきれいさっぱりなくなってしまった。
 人の死を見守ることができないのは、儀式が捨てられ、看取りの文化が崩壊したからである。看取りの文化を取り戻すには、ある程度の数を看取っていくしかないが、それが実現したとしてもずっと先のことであろう。」

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昔は親族親戚一同が枕元に集まったものだ。
posted by Fukutake at 10:02| 日記