2022年01月22日

死後をおそれる

「ココロとカラダを超えてーエロス 心 死 神秘ー」頼藤和寛 
ちくま文庫 1999年

死を恐れたがる p158〜

 「もし死が我々の当体を失わせるものであるとすると、私ー死の二項関係の一方が完全に消滅するのだから、我々が死を恐るのは、論理的な錯誤である。ふつう我々は、我々が何かを経験することを恐れるのだが、死は我々が経験する事柄のうちには含まれない。したがって理屈の上で、我々は死を恐れるべきではない。ところが、理屈の上で、「〜すべきでない」ことを我々はたんとやらかす。我々は錯誤を好んでいるようにみえる。

 こうした錯誤の背景には「死を経験しうる私が存在しうる」すなわち「死んでも命があるように」といった潜在的願望があるのかもしれない。我々は死を恐れる必要がない、しかしそれでも我々は死を恐れたいのである。我々の内なる非合理は、恐れることによって、その恐怖の対象まで存在させてしまう力を信じている。すなわち恐れることは、恐れる必要のあることを自分に納得させ、恐れる必要があるからには死を経験する私は存在するのであり、さらにのぞむべくんば死を経験したのちの私も存在し続けるであろう。

 実際、我々は死んで横たわっている自分を想像し、とりすがって嘆く家族や密かにほくそえむ敵と相続人たち、墓碑銘から果てはごくろうにも人類の未来までをあれこれ思案する。こうした想像上の未来に対しても我々は責任を負うべきだという根拠はない。そうではなくて、そうした空想される将来や死後に対して我々は責任を負いたいのである。責任であれ関心であれ、なんらかの関与の余地を残しておかないと我々は、それこそ跡かたもなく蒸発してしまうではないか。…
 もちろん、我々の法外な期待や非合理な恐れがたまたま実現することもあり得ないと決まったものではないから、あなたや私が死んだあとに、驚くべし、我々の視点がどこか草葉の蔭か天上の一角かに残って、我々の死と死後のなりゆきを見守るかもしれない。

 ここで人間の愚かさと狡猾さがまたぞろ罠を張る。ふつう死後の我々を空想するとき、我々はふだんの我々らしさを保持したままの視点を無意識に前提している。つまり魂はそのままでなので、のんびりした人はのんびりした自分を、自信家の自分を死後に想定する。ところが、のんびりや自信といったものは脳の働き具合に、おそらく完全に依存しているはずである。というのも脳に障害や操作が加わると確実にそうした心理特性が変化を蒙るのは争えない事実だからである。その土台である脳味噌が焼けたり腐ったりしてしまったあとに、まともな自分が残ることは百歩譲っても苦しい設定であろう。脳のあった時の自分と、もしあるとして(脳を失ったあとの)霊魂だけの自分とは、自ずから人品骨柄その他が一変していなければならない。一変しておれば、正確にはもはや我々の馴れ親しんだ自分ではない何かが残るのである。…」

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posted by Fukutake at 08:10| 日記