「荷風の昭和」川本三郎 第三十九回 太平洋戦争下の日々
「波 」2021年 8月号 新潮社 より p108〜
「年が明けて昭和十八年の一月一日、独居老人(永井荷風)には華やいだ正月はない。この日、炭を惜しんで正午になるのを待って起き出す。台所で庭木の枯枝などで焜炉(こんろ)をに炭火をおこし、米一合をかしぐ。惣菜は芋もしくは大根蕪のたぐい。素食である。食事を終え、顔を洗っているうちに三時を過ぎ、煙草を吸っているともうあたりは暗くなる。「是(これ)去年十二月以降の生活。唯生きて居るというのみなり」。何事もなく一日が過ぎてゆく。
そんな暮らしでも食糧は欠かせない。一月二十日、「風静にて暖なれば今日もまた食うものあさらむとて千住に行く」。
荷風は以前から下町のほうが意外に物資が豊富なことに気づいていた。関東近県、いわゆる近所田舎に近いためだろう。荷風は開戦前から、食糧を求めて下町を歩いている。
例えば昭和十六年九月五日。「玉の井広小路に罐詰問屋あり。市中にはなき野菜の罐詰など此店に有り。小豆黒豆の壜詰もあ利。其向側の薬局には蜂蜜有り。北海道より直接に取寄せる由店の者のはなしなり。此日浅草にて夕飯を喫し罐詰買ひに行きぬ」。
玉の井の陋巷に思いがけず、山の手ではなかなか手に入らない品を売っている店があった。そこで荷風は麻布市兵衛町の自宅から玉の井に出かけてゆく。以前は、小説を書くための、あるいは風雅な趣味としての下町散策だったが、それが食糧調達のために変わってきている。生活のためいたしかたない。さらに人形町あたりにも出かける。
昭和十六年九月十八日、「水天宮門外に漬物屋二件並びてあり。いづれも品物あしからず。人の噂に梅干もよき物はやがて品切となるべければ今の中(うち)畜へ置くがよかるべしと云ふに、今夕土州橋まで行きたれば立寄りて購ひかえリぬ」。
さらにまた、開戦後の昭和十七年二月十八日。「午後浅草向嶋散歩。実は場末の小店には折々売残りのよき罐詰あり又汁粉今川焼など売るところもあれば暇ある時定めず歩みを運ぶなり」。
下町、あるいは「場末」も店のほうが品不足になっていない。意外な「発見」である。下町歩きはお手のもの。それまで趣味で下町散策を楽しんできたが、ここにきてそれが役立ってきている。
荷風は、空襲が来るなら来ればよい、「生きてゐたりとて面白くなき国なれば焼死するもよし」(昭和十八年九月二十八日)と自棄(やけ)になったように書いたりするが、他方では「とは言ひながら、また生きのびて武断政府の末路を目撃するも一興ならむ」(同日)とも思う。こちらのほうが本当のところだろう。そのためにも、食糧調達の下町歩きを欠かさない。」
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