「本取り虫 ー本を読むのをやめられないー」 群ようこ 筑摩書房 1994年
うろこが落ちる p45〜
「どうして私は本を読むのが好きなのかと、考えることがよくある。スポーツもとくにやらないし、出歩くのも好きではない。世の中にある数多くの娯楽を消去法でで消していくと、やっぱり読書しかすることがない。しかし、それだけが理由ではないような気がして、もう一度、しつこく考えた結果、「本を読んでうろこが落ちる楽しみ」を味わいたくて、私はページをめくっているのがわかったのである。
いちばん最初に目からうろこが落ちたのは、林芙美子の『放浪記』である。当時、私は小学校の四年生だったが、いい加減、子供の読む本には飽きていた。それまで読んだ、図書館や書店にある子供向けの本は、
「子供ってやだねえ」
といいたくなるようなものばかりだった。私の憧れは大人が読む文庫本を読むことだった。ベージュ色の本に白や緑の帯が巻かれ、それがジャンル分けになっている。活字が小さいのもいかにも、大人の本という雰囲気をかもしだして、
「早く文庫本が読みたい」
と、憧れの目で文庫の棚を眺めていたのである。そして私は小学校四年生のときに、子供の本とは訣別しようと決心し、文庫本の棚から何の考えもなく、一冊の本を取り出した。それが『放浪記』だったのだ。
この話をある人にしたら、
「どうして夏目漱石じゃなかったんでしょうね」
と尋ねられたが、私にもそれはわからない。たまたま手に取った一冊の文庫本が、目のうろこを落としてくれたのである。
両親の仲が悪かった私は、「女の子は白馬に乗った、優しい王子様と結婚して、お城で幸せにくらしました」といった、ハッピー・エンドのお話を、幼い頃から、うさん臭いと思っていた。そういうのなら、うちの母親も幸せなはずなのに、子供の目からみてもちっともそうはみえなかったからだ。変だ、変だと首をかしげていた私にとって、『放浪記』はまさに、「これだ!」といいたくなるほど、インパクトがある本だった。
ここに書いてあるのは、夢物語の女性ではなく、現実に生きている女性の姿だった。生活をしていくために、主人公は山のような嫌な思いをする。みかん箱にへばりついて原稿を書き、やっとの思いで書きあげて、出版社にもっていく。お金がないから歩いていくのである。そしてやっとの思いで家にたどりつくと、さっき渡した原稿が、速達で返送されていたりして、とにかく万事うまくいかない。だけど私は、そんな主人公の姿にのめり込んだ。結婚していても、夫婦仲がうまくいかず、ぶつぶつ文句ばかりいっている母親よりも、主人公の生活のほうが、ずっと魅力的に見えたのだ。」
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