2022年01月10日

日本の弓術

「日本の弓術」 オイゲン・ヘリゲル述 柴田治三郎訳 岩波文庫

p61〜

(オイゲン・ヘリゲルは語る)
 「仏教は日本民族の文化と生活形態を広い範囲にわたって規定し、かつこれに特色を与えて来た。いわゆる悟りを開くのは、つねに比較的少数の人間に限られているので、仏教の作用はもちろん直接ではなく、いろいろの術を仲介としたものである。術と言えば、日本人はだれでも、少なくとも一つの術を習得して、生涯これを行っている、と言うことができる。もちろんそれが墨絵の基礎となり出発点となる「書」の術に過ぎない場合もある。弓術はすべての上級学校で随意科目として教えられている。剣術も同様である。それゆえ、これらの術の精神に触れる者の数が非常に多いことは、言わずとしれたことである。ところがこれらの術は、いずれもその特性に応じて、色々と違った形で、またそれぞれ異なった程度に、仏教の精神を取り入れているので、それらの術の人心に及ぼす作用は一定の明白な現れ方を示すものとは、期待すべきではないであろう。

 これらの術を会得すれば、平然としていても心に隙がなく、無心に行動しても意志が最後まで持ち耐(こた)えられ、無私な態度の中にも自己が確実に保たれるようになる、という見解がしばしば主張されるが、それは確かにその通りである。しかしそれは一つの副作用に過ぎなく、禅の雰囲気とはきわめて関係の浅いもので、他の場合にはまったく異なった条件のもとにも現れるうることである。無私の態度は、ヨーロッパ人の自己崇拝と異なり、日本人の精神生活にとって見きわめのつかないほどいちじるしいものではあるが、これさえも一概に仏教の成果と見ることはできない。その根元は元来日本の民族精神の中に求めるべきであり、しかもこれは自然ならびに歴史によって規定され、仏教と接触しない以前からすでに力づよい動きを見せていたのである。その後仏教が影響を及ぼし始めた時は、早くも一つの重要な足場が仏教に保証されていた。日本民族は仏教を自分に適合したもの、自分と精神的に親和性のあるものと考えたにちがいない。そこで日本民族にとっては、自然に成長して来た日本的存在様式の根本特徴が仏教によって承認されるのを見た上で、その後それを意識的に深めて行って身についた態度にするということだけが残っていた。もちろんそれだけでも十分ひろい意義のあることである。

 しかしそれはそれだけに留まらなかった。日本人にとっては、己の民族の既成の秩序になんの摩擦もなしに順応するのは当然のことであるのみならず、その秩序のためには自己の生存をさえ泰然として犠牲にし、しかもそのために仰々しく騒ぎ立てられることはない。ここに初めて、仏教の及ぼした影響の成果と。同時にそれに基づくもろもろの術の持つともなしに持っている教育的な価値の成果とが、明らかに現れる。この内面の光によって、死も、祖国のためにみずから進んで求める死さえも、崇高な清祓(せいふつ)を受け、同時にあらゆる恐怖は跡方もなく消え失せる。仏教ならびにすべての真の術の練磨が要求する沈思とは、単純に言うならば、現世および自己から訣別ができ、無に帰し、しかもそのためにかえって無限に充されることを意味する。…」

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posted by Fukutake at 14:18| 日記