2022年01月10日

ものは考えよう

「紳士の言い逃れ」土屋賢二 文藝春秋(文春文庫)

幸運な男 p87〜

 「思わぬ発見は思わぬときに訪れる。わたしが幸運な男だということを発見したのは、世界経済と円高が危機的状況に陥り、世界経済の先行きとわたしの先行きに胸を痛めながら、初サンマのおいしさに感動してたときだった。
 この時期、サンマはまだ少し高いが、和牛より安い。いわんや同じ大きさの金やダイヤモンドより安い。ダイヤモンドを食べることを考えたら、ものすごくトクである上に歯も欠けない。
 初サンマは脂がのっていて、大根下ろしに醤油をつけて食べると、世界経済や締め切りのことを忘れるほどおいしい。実際に試してみると、仏教伝来の年号も一昨日の夕食も思い出せない。生まれてからこれほどおいしいサンマを食べたことがあるかどうかも思い出せない。

 このときだ。自分の幸運に気がついたのは。日本人に生まれて幸運だった。サンマを食べてはいけない国やサンマの生息しない星に生まれなくてよかった。とくにサンマや大根に生まれなくてよかった。
 サンマに生まれていても不思議ではない。個体の少ないシロナガスクジラやトラよりも、ゴキブリやサンマに生まれる確率の方が高い。もしサンマに生まれていたら、ロクデモナイ男に食べられ、腹の皮下脂肪として蓄えられるばかりか、駄文のタネにされるのだから浮かばれない。魚だけに。

 そう考えると、わたしは幸運な男だ。時期も恵まれている。四十六億年にのぼる地球の歴史の中で、ティラノサウルスではなくサンマと同時期に居合わせたのは奇跡のような幸運だ。さらに、おいしいものは身体に悪いと決まっているが、現在、サンマのような青魚は身体にいいとされ、身体に悪い成分はまだ発見されていない。今がチャンスだ。
 さらに考えているうちに、サンマを離れても信じられないほどの幸運だということが分かってきた。もしわたしが超イケメンだったら(わたしもその一人だが、幸いなことにだれもイケメンとは気づかれていない)、みっともないことはできなかっただろう。落とした十円玉が転がって行くのを追いかけたあげく、自販機の下に入ったのをはいつくばって取るようなことはできなかっただろう。


 オシャレでないのも幸運だった。オシャレと定評があれば、わたしの服装は袋だたきにあっただろう。食通でないのも幸運だった。食通だったら「サンマと牛丼さえあれば何もいらない」と本音を言ったら厳しい非難にさらされていただろう。トップアスリートでないのも幸運だった。短距離ランナーなのに、百メートルの最高タイムが十五秒、しかも三回に一回は完走できないとなれば、口をきわめて罵倒されるだろう。
 気品がない(と思われている)のも幸運だった。もし気品があればわたしが書いている風格に欠ける文章はとても書けないところだ。
 問題になるとすれば、大学教授をしていたことだ。大学では信用できない男という評判を確立していたから問題はなかったが、今後は教育したという経歴のために、無知をさらすわけにはいかない。だが哲学の場合、ソクラテスが「無知の知」を主張してくれている。それを徹底し「わたしは何も知らない。知らないことも知らない」と「無知の無知」を主張すれば、無知を責められる怖れはない。専門が哲学で幸運だった。

 要するに、傑出した人物でなくてよかった。傑出していなければ期待されず、期待されなければ責められない。期待されない人間である幸福をかみしめていると、「そのシャツ買ったばかりなのよ! サンマと醤油がこぼれているじゃないの!」という大声が轟いた。さほど幸運でないかもしれない。」

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posted by Fukutake at 07:46| 日記