「西洋作家論」 小林秀雄 第三文明社 レグルス文庫
アランの事 p40〜
「僕は当時ベルグソンを愛読していた。彼の思想はアランとはまるで違うと哲学者は言うかも知れぬが、僕には二人とも、とどのつまりはおんなじものを語っているように思われます。前者は生命という掴み難いものを最初に手に入れて、理論という掴み易いものを叩きこわす仕事をしております。そして掴み易い理論を叩き壊すことによって、掴み難い生命の真の相を、殆ど掴みやすいと読者に思わせる程見事に表現しております。後者は掴み易い論理を最初に手に入れて、掴み難い生命というものを飽くまで征服しようとする仕事をしている。そして掴み難い生命を征服する事によって掴み易い論理の動きを殆ど掴み難いと読者に思わせる程見事に表現している。
大事なのは思想ではない、思想をどの様に表現するかという事です。二人の文章を比べてみると、仲々興味があります。ベルグソンもアランも独特な名文を書く。ベルグソンの文章は冷く金属の様で、一直線に進みます。アランの方は、色彩が豊かで、掴もうとすれば逃げて行く程柔軟で、紆余曲折して進みます。どちらが好きかと言えば、今はどちらも立派だと思いますが、当時はベルグソンの方を偏愛していた。ベルグソンは、ものを一刀両断する、そして両断したものの断面より、寧ろ一刀両断する手つきの方を強く読者に印象させるとうやり方で、喩えてみれば、A,B,Cという三つの要素が互いに干渉し合って、或る状態を作っている事を表現するのに、必ずAからはじめます。Aからはじまる瞬間、彼は読者にB,Cの存在を忘れさせ、Aのみについて出来るだけ明らかな像を作らせる様にしむけます。ところが論理的に明瞭なAの像というものは、B,Cの干渉なしには成立しないということを読者は知っております、知っているが彼の表現について行くと独立したAの明瞭な像を強いられて了います。B,Cの存在を考える暇がない。Aが明らかになったと感ずる途端、既に僕達は何の障害にも出あわずBの分析につれて行かれています、以下これに順じて結末に至り、はじめて作者の見事な読者欺瞞の手並みに感嘆します。丁度A,B,Cという塊りを団子の様に刺す、ベルグソンはお団子を刺す串で、彼の表現に酔った読者もその時に串になる。串が進行している間、Aを通過する際は、B,Cを知りませんが、刺し終わった時、いかにも見事にA,B,Cが互いに干渉しあっている状態を回顧的に明かされるという仕掛けになっております。このベルグソンの方法は僕の論文制作に大へん影響しました。
アランじゃこれと全く逆だ。彼はA,B,Cをはじめから読者に見せて了います。お団子は刺される状態になく、寧ろあんこで捏(こ)ねられる状態におかれます。而も彼はお団子をあつかう手つきを決して読者に見せません。つまりベルグソンですと、読者は彼の精妙な実験に連れて行かれ、許しを得て外に出ると這入った時とは四辺の景色が変わってみえるというあんばいですが、アランはそういう事をしない。彼は決して自分の室には読者を入れない、読者は、はじめからしまいまで外気にさらされて風景を見詰めねばならぬ。アランは傍に立っていて、風景の見方について様々な忠告を間断なく与えるのだ。」
(初出「文學界」昭和九年二月号)
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