「復刻版 村の若者たち」 宮本常一 家の光協会 2004年
若者と古い風習 p136〜
「瀬戸内海の漁村には、男女合同の宿をもつものは、出かせぎ漁をしているところにはしばしば見られたし、またそうでなくても、娘宿へ男がとまりこむふうはよく見られたのである。農村のほうには、男女合宿という例はあまり見られないけれど、男が娘の家へ夜遊びにいったり、夜ひそかにしのびこむふうは、ひろく見られたところである。そしてしかも、自分たちの村うちだけでなく、隣村へも、またかなりはなれたところへも出かけていった。…
だが、そうしたことは弊風であるとして、とめられるようになったのは、青年団運動が盛んになってからである。青年団では、男女の風紀はかたくとりしまるようにしてきた。いま一つ、明治の終わりごろから村々に電灯がつきはじめて、この風習を消すのに大きな役割をはたした。電灯のつくまで、村々の夜の明かりはランプかカンテラ、またはあんどんであった。あとは、真の闇になる。若い者たちは、それから娘のうちへしのびこみにいったものである。つかまることもほとんどないし、また親たちも大目に見ていた。
だがこのような風習は、山間や離島には長くのこっていた。陸月島でも、女の先生のところへ、夜遊び程度の気持ちで、出かけていったのかもわからない。島民にしてみれば、日常ありふれた問題だと思っていたものが、刑事事件にまで発展しておどろいた。さっそく、青年団長と教育長が女先生のところにあやまりにいったが、年少の先生のほうはどうしてもかえっては来なかった。…
島の若者たちは、元々通り、娘たちと他愛のない話のできる方が気らくであり、おもしろくもあったのだが、このことがあってから、急にせきたてられるような気持ちになって、おちつけなくなったのは青年ばかりでなく、娘たちも同様であった。若い男女の性関係も、長い生活体験から割り出されたものであって、決して不合理なものではなかったばかりでなく、庶民一般の社会の中には、恋愛を基調とした結婚が根強かったのである。
そして男女間のことが非常に自由に見えつつ、なおきびしい規律のおこなわれていたことは、若者組そのものが、きびしい規約をもっていたからにほかならぬ。その規約の一つをかかげて見ると、天明七年(一七八七)の愛知県渥美郡八王村のものに、
一、公の規則はよくまもり、親に孝行し、兄弟仲よく、家業に精出すこと。
二、隣近所に出火のときは、火消し道具をもってかけつけ働くこと。
三、盗人のはいったときも鐘をならし人をよび、出合って働くこと。
四、不義がましいことをしてはならぬ。
五、礼儀をまもり、貧しくても古参のものは立てなければならぬ。
六、よその家にいって、さしつかえのあるとき長居してはいけない。
七、婚礼のときは、ご馳走酒が出ても、迷惑をかけるほど大酒をのんではいけない。
八、祭礼の時など、大酒をのんで相手に恥をかかせるようなことをしてはいけない。
九、仲間のつきあいは平生仲よくして、不行届きのないようにすること。
十、若い者がすきな娘ができて、他村へまで通うような場合はには、先方の若者組へも了解を得ておくのがよい、そうしないと、密通としてとがめられても仕方がない。
十一、若者が、他国へかせぎに出たときは、七カ年の間は、村の若者たちの間に祝儀のあった場合は、仲間として祝儀酒を出すべきである。
とある。どの条項も至極もっともなもので、申しあわせたことを厳重にまもったのが特色で、守らないものがあれば制裁を加えた。」
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