「神皇正統記」 北畠親房著 松村武夫訳 教育社
第五十代 桓武天皇 p158〜
「第五十代、第二十八世、桓武天皇は光仁天皇の第一の皇子。御母は皇太后高野新笠(たかのにいがさ)で、贈太政大臣藤原乙継(おとつぐ)の娘である。光仁天皇は即位してすぐに井上内親王<聖武天皇の御娘>を皇后とした。井上内親王がお生みになった早良(さわらの)親王が皇太子にお立ちになった。ところが藤原百川朝臣が桓武天皇に皇位を継承させようと思って再び計略をめぐらし、皇后と皇太子を退かせて、ついに桓武天皇を皇太子にお据え申し上げた。へ
その時、光仁天皇はしばらくの間これを許されなかったので、百川は四十日間も御殿の前に立ち通して許しを請うたということである。例のない忠烈の臣であることよ。皇后と前皇太子は責められてお亡くなりになった。その二人の怨霊をお鎮めになろうとしたためであろうか。早良皇太子には後に追号して崇道天皇と申し上げた。
平安遷都
桓武天皇は辛酉(かのととり)の年(七八一)に即位、壬戌(みずのえいぬ)の年(七八二)に改元された。初めは平城京におられた。その後、山背(やましろ)の長岡に遷都し十年ばかり都としたが、さらに現在の平安京に遷都なさった。山背の国をを改名して山城というようになった。永久にこの都が続くようにお取りはからいになった。昔、聖徳太子が蜂岡に登って<太秦がこれである>現在の地勢をぐるりとごらんになり、「ここは四神にふさわしい土地である。百七十余年後には、都を移して、以後は永久の都になるであろう」とおっしゃったと申し伝えている。その年数にもほぼ違わず、また遷都後は数十代の間ずっとかわらず都であったということは、まことに天皇が居を定めるにふさわしい福徳の地なのである。
桓武天皇は大いに仏法を崇拝なさった。延暦二十三年(八〇四)には伝教大師と弘法大師が勅(みことのり)を賜って唐にお渡りになった。その時、唐朝へ使節を派遣された。遣唐大使は参議左大臣大弁兼越前守藤原葛野麿朝臣(かどのまろのあそん)である。伝教大師は天台の道邃(どうすい)和尚に会い、天台宗をきわめて延暦二十四年に遣唐大使とともに帰朝された。弘法大師はなおもかの国に留まって大同年中にお帰りになった。
この御時代に東夷が反乱を起こしたので、坂上田村麻呂を征東大将軍として派遣されたところ、ことごとく平定して帰参された。この田村丸は武勇人にすぐれていた。初めは近衛の将監になり、次いで少将に移り、さらに中将に転じて、弘仁の御時であろうか、大将に上がって大納言を兼任した。武のみならず文の方面の才能も備えていたからであろうか、納言の官まで昇進したのであった。その子孫は現在でも文官として伝わっている。
天皇は天下をお治めになること二十四年。七十歳でいらっしゃった。」
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